[小話]黙祷

2008/1/18 金曜日

 太陽宮の高みから、時間を告げる澄んだ鐘の音が微かに降ってくる。直線的にはさほど距離はなくても、間を埋める建造物が鐘の響きを減衰させているのだろう。むしろ、あれほど分厚い建物を通して尚響くことに、シェンルフィーダは軽く驚いた。なにしろ太陽宮は広い。裏手にあるこの場所まで届くとは、思っていなかったのだ。
「……兄上には、わらわの感傷に付き合わせてすまなんだな」
「リムが謝る必要なんて、無いんだよ」
「……そうか……」
 頼りなく揺れる呟きにすかさず言葉を返したものの、リムスレーアが納得していないことは声色からすぐに知れる。分かるだけに……シェンルフィーダとしては、つらいものがある。
 内乱までのリムスレーアなら、素直にシェンルフィーダの慰めに騙されてくれていた。静かに微笑んで、あるいは向日葵のような笑顔で、「ありがとうなのじゃ、兄上」と受け止めてくれていた。安易な言葉に流されることを許さず、けれど突き放す厳しさも持てず、唇を固く結んで己を責める表情なんて、本当ならまだ知る必要さえなかったはずなのだ。
「……これは、リムだけの問題じゃない。僕とリムとが、等しく負うべきものなんだよ。……だって、兄妹だろう?」
「そうじゃな……」
 言葉だけでは足りなくて、妹とつないだ手のひらに少しだけ力を込めると、ようやくリムスレーアは小さく笑った。まだ痛みが残った表情だが、それでも笑ってくれたことにほっとする。
 ソルファレナ奪還を果たしてから、今日でちょうど一年という時間が経った。マルスカールを追い詰め太陽の紋章を取り戻し、全てに片をつけたのはもう少し後のことではあるが、それは事情を知る一部にとってであり、国内的には内乱が終結したのは一年前の今日という日になっている。その記念日を華々しく祝そうという案がつい最近出されたのだが、リムスレーアはそれを却下した。
『ゴドウィン指揮下で戦に赴いた者達も、守らねばならぬ民であったことに代わりは無い。ゆえにその日は、敵味方の区別無く、内乱により失われた全ての者達に哀悼の意を捧げるべきだと……わらわはそう、思うておるのじゃ』
 ……そうして、シェンルフィーダたちはここに居る。追悼式だ何だと慌しい一日が終わろうとしている時間ではあるけども、一応「今日」という日のうちに来ることができた。
 もうとっくに日が落ちている時間なのに、巧みに計算され配置された明かりのお陰で薄暗さは無く、全体がぼんやりと薄明るい。人が通るような場所ではないのだが、庭師が丁寧に世話をしてくれているらしく、広い空間のあちこちで美しく花々が咲き誇っている。いろんな種類のものが植えられているのは、そこに眠る人々の好みを反映してのことなのだろう。所々視界に入る墓石が無ければ、ただの庭園にしか見えないここは……女王家縁のものが永遠の眠りにつく墓地なのだ。
 生まれる前に祖父が、物心着く前に祖母が亡くなったため、シェンルフィーダは一度しかこの墓地を訪れたことが無い。ここに眠る人たちは血縁ではあるけども、記憶に無い人たちであるせいか、そんな感慨はひどく薄いものだった。正直なところ、どこに誰が眠っているのかさっぱり分からない有様だ。母と祖母の間には言葉では現せない確執があったようで、なんとなく来難かったこともある。
 だが、リムスレーアにとっては通いなれた場所のようだった。迷いの無い足取りでゆっくりとシェンルフィーダを導いていく。やがて手をつないだまま二人並んで、まだ新しい墓石の前で足を止めた。清らかな白百合に囲まれた墓石には、そこに眠る者たちの名が刻まれている。
 すなわち。
「父上、母上……お久しぶりです」
 衣服が土で汚れるのも構わず、シェンルフィーダは膝をついた。真白い大理石に刻まれた両親の名はまだ彫り跡も新しく、胸の奥がつんと刺激される。父と母とを喪い、妹と引き離され、住み慣れた太陽宮から逃げるように脱出し……全てを取り戻すことを誓った日は、そう遠い過去のものではない。
 自分でさえ、そうなのだ。リムスレーアにとっては、尚のことつらい記憶に違いない。ましてや、リムスレーア自身は何も語らないし、主に従って太陽宮に残された人々は決して口を割ろうとはしないが、前女王と騎士長である両親の葬儀にも、唯独り残る王族として立ち会っていたはずだ。誇り高く、己に課せられた責務から決して眼を逸らさない妹だから、アルシュタートの遺体と、亡骸さえ残さず消えたフェリドの遺品とが埋葬されるその様子を、この場で見ていたに違いない。
 俯けば涙が零れ落ちるから、昂然と顔を上げて。仇と信じ夫と呼ばねばならない立場の男を隣において。
 僅かに十歳を超えたばかりの華奢な妹が、今まで見てきたものの惨さを思うと、シェンルフィーダはひどく居た堪れなくなる。過去はどうしようもないと知りつつ、それでも当時の自分に今と同じだけの力があったなら、という想いが拭いきれない。
 リムスレーアに気付かれないよう、密やかにため息をついて、シェンルフィーダは視線を横に滑らせた。両親の墓碑に隠れるようにして、誰の名も刻んでいない小さな石が置いてある。
「……ありがとう、リム」
「兄上に礼を言われるようなことは、何もしておらぬ」
 答える声音が僅かに固いのは、何について礼を言ったのが察したからだろう。裏切りを決して許せない潔癖な性格と、それでも何を想っての行動だったのかを知る聡い理性とで、今も尚葛藤しているに違いない。リムスレーアの中で『彼女』は、憎みきることも受け入れることもできない、中途半端な立場のまま残っているのだ。
「……ほら。リムも挨拶しなきゃ」
「そうじゃな……」
 小さく促すと、リムスレーアが神妙な顔で頷いた。さらりと長い衣服の裾を払い、シェンルフィーダの隣で同じように跪く。祈るように手を組み、双眸を伏せた妹から視線を外し、シェンルフィーダは再び小さな石碑に向き直った。
 彼女がその命を落としてから、まだ一年しか経っていない。けれどその間に、いろいろな出来事があった。喜ばしい報せも、少し寂しい話も……語りたいことなら、たくさんある。
 けれど、何よりもまず最初に話したいのは。
(あなたのおかげで、リムはまだ迷っている。ひどいじゃないですか、叔母上)
 それは悪いことをしたねぇ、と応じる声が聞こえたような気がして、シェンルフィーダは小さく苦笑した。
 公式には、サイアリーズは『王子軍と行動を共にしながらギゼルに内通した裏切り者』という事になっている。サイアリーズの真意はどうあれ、表面的には彼女の行動はまさしく『裏切り』に他ならない。そのため、人々の間に広がった噂を追認するような形で公式発表を出さざるを得なかった。その後、ソルファレナ奪還の際死亡したサイアリーズの遺体は、反乱に加担したザハーク達と共に罪人として共同墓地に葬られた、と発表した。
 名が記されていないこの石の下に誰が眠っているのか、知っているのはほんの数人だけだ。
(僕が居ない間、叔母上とリムはどんな風に過ごしていったのですか)
 ソルファレナ解放のさなか息絶えたサイアリーズを密かにここへ移したのは、リムスレーアの独断によるものだ。シェンルフィーダでさえ、それを知ったのは混乱が収まりしばらくしてからで、そのときにはもうここに埋葬された後だった。
 リムスレーアが何を思い、そんな風に行動したのか、シェンルフィーダには分からない。一度だけリムスレーアに理由を尋ねたことがあるのだが、相当長い沈黙の後に「母上にとっては、たった一人の妹だから」という言葉が返ってきただけだった。
 それが本心からなのか、それとも言い訳なのか、見分けがつかなかった。もしかしたら、サイアリーズとリムスレーアの間でそんな話が出たのかもしれないし、あるいは妹なりの叔母に対する感謝の表れなのかもしれない。サイアリーズが太陽宮へ戻ってから、リムスレーアとどんな会話を交わしていたのか……リムスレーアは何も語ろうとしないし、サイアリーズもまた何も教えてくれない。
 だから。
(母上、父上、叔母上……)
 知りえない過去の経緯を気に病むのではなく、未来を。取り戻したものを喪ってしまわぬよう、心のうちで誓う。
(どうか、見守っていてください)
 ふと眼を開け隣を見ると、リムスレーアはまだ俯いたままだった。やがて長い睫が小さく震え、ゆっくりと琥珀の瞳が現れる。
「……すまぬ兄上、待たせてしもうたかのう」
「いいや全然。リムは、父上たちとどんな話をしたの?」
「内緒じゃ。そういう兄上は?」
「僕も、秘密」
 裾についた土を払い落とし、リムスレーアに手を差し伸べると、するりと細い手がおさまった。二人並んで、来た時と同じようにゆっくり歩き出す。
「……そろそろ行こうか。ミアキスがきっと待ちくたびれてるよ」
「そうじゃな」
 この手が二度と離れないよう、祈りをこめて繋いだ手に力を込める。
(リムは、僕が必ず護りきってみせる)
『頼みましたよ、シェン』
 三人それぞれの柔らかい励ましが、シェンルフィーダの耳を掠める。幻かもしれないが、誓いを聞き届けてくれたのだと……その答えなのだと、そう思いたかった。

[雑記]感謝。

2007/12/29 土曜日

いつもより慌しい年の瀬ではありますが、それでも去年よりはのんびりした感じで過ごしている御月ですこんにちは。

きちんと「仕事納め」があって、今年はもうほぼ仕事がない状況ってのは、精神的にのんびりできていいなぁ、と思います。ネット関係の仕事は、どうしてもパソコンと回線さえあればいつでも仕事できる→盆も正月も関係ないぜ!てなりがちなので。

さぁ、次は家の大掃除だ……。

 

 

拍手御礼
24日11時:あんまり頻繁に更新して無いんで、そうそう変わってないかもしれませんが…(苦笑)  「まみれ」っていうか「だらけ」っていうか、全体的にそんな感じですが、楽しんでいただけると幸いです。

[小話]聖誕祭の夜

2007/12/25 火曜日

 そういえば、と思い出したのは、もう寝る直前だった。寝る準備を今頃している自分とは違い、ヒューゴはもう準備万端整えて、ベッドの上で最近はやりだとかいう恋愛小説を寝転んだまま読んでいる。寝転んで本を読む姿勢は苦しくないのか、と見るたびに思うのだが、ヒューゴにとってはまったく苦ではないようで、クリスが寝る前の時間をいつもそんな風に過ごしていた。

「どうしたの?」
「ああ、いや……」

 朝起きたときに髪の毛が大変なことにならないよう、緩く編みながら曖昧に答える。どうやら先ほどの『思い出し』は無意識のうちに声に出してしまっていたらしい。独り言にしかすぎない言葉でもきちんと捉え、会話のきっかけにしてしまうヒューゴの律儀さに、相変わらずだな、と少しだけおかしくなる。
 紐できちんと結んでから、ヒューゴの隣にもぐりこむと、ぱたりと本を閉じてヒューゴがまっすぐにクリスの方に向き直る。至近距離で見る緑柱石の双眸がいつもよりなぜかやさしく見えて、妙に気恥ずかしい。
 それは、ふと脳裏をよぎった懐かしい想い出のせいだろうか。

「そういえば、久々だな、と思って。それだけなんだが」
「何が?」
「聖誕祭の夜を、誰かと一緒に過ごすのが」

 いつもより少しだけ豪華な食卓を囲んで。暖かい暖炉の前で、いろんな話をして。
 両親が揃っていたときはずっとそんな風にこの夜を過ごしてきていた。今日ばかりは特別といろんな話をしてくれる父に甘えて、「今日はもう寝なさい」なんて母に苦笑されて。
 それはもう遠い遠い想い出で、ひどく朧になってしまっているけれども。

「……すごく楽しかった、ありがとう」

 父と母が相次いで亡くなってから、この家に居ること自体がひどく減った。ただ独り残された屋敷はひどく寂しく、すぐに騎士団付属の学校へ入ることを決めたからだ。寮に入ってからは帰省自体が稀で、ずっと独りで過ごしていた。
 騎士団に入ってからも、戦場が選択肢に加わっただけで何も変わらなかった。それどころか、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていた。

「……クリスさんて可愛いよねほんと」
「何がだ」

 率直な感謝にそんな茶化すような答えを返されて、クリスは僅かに唇を尖らせた。暖かいベッドのお陰か、それともちょっと普段より多めに飲んだ葡萄酒のせいか、どちらが理由かは分からないが、横になったとたんひどく眠くなっているような気がする。いつになく素直な反応も、そのせいかもしれない。

「なんでもないよ。ただ……クリスさんに楽しんでもらえて、俺も嬉しかった。それだけだよ」
「そうか」

 少しだけ意味深なヒューゴの笑みが気になるものの、ゆっくりと押し寄せる睡魔が勝った。間近に感じるヒューゴの温もりに頬を預けて、そっと瞼を閉ざす。

「今度は、ヒューゴの番だな。新年はカラヤ流でお祝いしよう」
「それはやめたほうがいいよ。多分」
「何故だ?」
「だって、三日三晩飲み明かすんだよ。クリスさんの仕事に差し支えちゃうよ」
「……それは困るな」
「でしょ?」

 くすくすと漣のように降ってくる笑い声が、なんとなくくすぐったい。

 ああ、なんて幸せな。

「おやすみ、クリスさん」
「おやすみ、ヒューゴ」

 

 

 
 枕元に置かれたプレゼントに気付くまで、あと数時間。

[雑記]付足。

2007/12/18 火曜日

久々の更新に言い訳めいた付け足しをしなければならない現状が、ちょっとばかし情けない御月ですこんばんは。

というかですね。
昨日更新の「Messias」は、本当は50音小話「メサイア」として更新する予定だったんですね。
ところが、出来上がったものを見たら、内容量が12KB……最長と思われた「人間の欠片」9KBよりさらにでかいわけでして。まじめな話、これはさすがに「小話」じゃねぇわ、ということで急遽タイトルを変更し、小話「メサイア」をアップしたわけです。

小話「メサイア」は、「Messias」直後を想定してます。ヒューゴと話して、ほっとしたクリスを見守るヒューゴの話ですね。

 

一応、天月公司では「ヒューゴがゼクセンへ行き、クリスの押しかけ女房になる→一緒に旅立つ」という設定の話が多いですけども、「Messias」含め同設定のものは続いている話ということになっています。
……今のところ、矛盾は無いよね……?

[小話]メサイア

2007/12/17 月曜日

 ひどく疲れていたのだろう、クリスは軽く食事を取っただけで、すぐに深い眠りについてしまったようだった。ソファに深く座ったまま、ゆっくりした呼吸に合わせて肩から滑り落ちる銀髪がさらさらと揺れる。
 起こさないように気をつけながら、ヒューゴはその隣に座った。慎重な手つきでクリスの体を傾けさせ、自分のひざの上にクリスの頭がくるように調整する。
「うぅん……」
 呟きともうめきともつかない声が、クリスの唇からこぼれる。起こしてしまったか、と顔を覗き込んだが、眉間に深いしわを刻んだままクリスは眠っているようだった。どうやら先ほどのは寝言ということなのだろう。ほっとすると同時に、どんな夢を見ているんだか、と呆れもする。夢の中でぐらい、もう少しこう……安らかになってもいいはずなのに。
 口には出さず、小さくため息だけをついて、ヒューゴは寝室から持ってきた毛布を、クリスの上にゆっくりと広げた。毛布からはみ出したクリスの両肩は、そこに課せられる重責とは正反対に、ひどく細く頼りなくさえ見える。

(可哀想に、ね)

 半ば以上< 英雄>としての責務を放棄している自分とは違い、クリスは現在進行形だ。決して逃げようとしない潔い精神は、多くの人が好意を持つだろうが、時と場合によってはクリス自身への害となる。誰にも肩代わりを許さず、独り抱え込むその姿は、あとわずかという時間制限が無ければ決して容認し得ないものだ。
 全てを救おうと足掻く彼女の中で、彼女自身も「救うべき人間」に入っていればいい、と心の底から願わずにはいられない。身を削るのを当然と考えている彼女は、他人に優しく……限度を超えて自分に厳しい。

(クリスさんは、優しすぎるから)

 人を救うのは、人ではない。本当の意味では、自分自身以外誰も救えない。早くそれに気付いてくれればとも思うが、騎士として「市民の剣となり楯となる」のが呼吸するように当たり前のクリスに、それも酷な話なのだろう。ゼクセンを離れ旅をするようになれば、また少しは変わるのかもしれないけれど。

(……さて、どうしたものか)

 クリスの朝は早い。そもそも激務の連続なのだから、きちんとベッドで寝て疲れを取ったほうがいい。けれども、今ここで起こすのもなんだかなぁ、とも思う。最初からベッドへ連れて行けばよかったという反省がちらりと脳裏をよぎるが、今更それはしょうがない。とりあえず自分も風邪をひかないよう、少し毛布を引っ張って、ヒューゴも眼を閉じることにした。

(……おやすみなさい、クリスさん)

[小話]昔話は変遷する

2007/11/2 金曜日

 ある程度、予想はしていたのだ。
 記憶というものは、どうしたって風化する。人々の口から口へと伝えられるたびに、ある部分は抜け落ち、あるいは付け足され、いつの間にか事実は「綺麗で完全な『物語』」へと変化していく。人に伝わらない、個人の中の記憶でさえも、想い出は時間と共に色褪せ、美しく朧げなものへとぼやけていく。
 記録だとて、風化からは逃れられない。いや、公正であり事実であると信じられやすい分、文字による記憶のほうが性質は悪いかもしれない。何時・誰が・どの立場から書いたものか、それによってただ1つの事実が様々な思惑で解釈され、千変万化の色合いを見せてしまう。
 ヒューゴ自身、記憶も記録も当てにならないことを知っている。当時どれほど広く知られていた事柄も、時間と共に忘れられてしまうし、伝えられなくなってしまう。ヒューゴがまだ何も知らない「子供」だったころ、< 炎の英雄>がかつて何を想い、行動したのか、まったく知らなかったように。生身の人間の苦悩も葛藤も置き去りにされ、ただの「御伽噺」が出来上がった過去を、知っている。
 とはいえ。
「……」
 目の前に展示されている現実は、ヒューゴの生半可な予測や覚悟を軽々と打ち砕いて余りある破壊力を有していた。
 呆然と見上げるヒューゴの隣で、クリスは顔を背け肩を震わせている。笑い転げたいのを懸命に押さえ込んでいるのだろう。薄情だと怒ればいいのか、一緒になって笑い飛ばすのがいいのか、対処に困ったヒューゴは途方にくれて、とりあえず視線を下に落とす。先ほど見たものを、脳と心と両方とが認識したがらないようで、うまく考えが回らない。
「あの、どうか……?」
 片や絶句、片や笑いをこらえる、といった常に無いであろう反応に、案内人の若者がおずおずと尋ねた。三人の前にかけられた巨大な絵は百年ほど前の戦を描いたもので、この城を訪れる観光客の間でも特に人気が高いものだ。今まで感動されることはあっても、笑われる事など若者にとっては初めてなのだろう。
 さもありなん、とヒューゴはぼんやり思う。
 芸術に対する素養はあまり無いヒューゴでさえも、この絵は素晴らしいように見えた。大胆な構図に独特の色使いが美しいが、なんといっても人々の表情が特に見事だといえた。戦の一場面だというのに凄惨さは感じさせず、外敵を討ち払うべく立ち上がった人々が、活き活きと描かれている。中でも、中央に立つ人物は特に思い入れをもって描かれたらしく、たかが絵画とは思えない強烈なカリスマと、今にも動き出しそうな躍動感とが、画布を通じて伝わってくるようだった。モチーフがモチーフでさえなければ、ヒューゴもクリスも手放しで絶賛したに違いない。
 はぁ、とため息をついたクリスが、ヒューゴのほうへと視線を向けた。ようやく笑いが収まったらしいが、よくよく見ると目元にも口元にも、もうひとつ声色にも笑みが滲んでいる。
「……ヒューゴ、感想は?」
「おや、こちらの方もヒューゴ様とおっしゃるので?」
 クリスの言葉に、ヒューゴよりも先にクリスが先に反応した。良く言えば素直、悪く言えば空気が読めない性格なのだろう、純朴そうな笑みを浮かべて朗らかに言葉をつなぐ。
「では、< 炎の英雄>様にあやかって名づけられたのかもしれませんね。あまり一般には知られていませんが、歴史書によりますと、< 炎の英雄>様も『ヒューゴ』というお名前だったそうですよ」
「……ッ!」
 若者の言葉に、せっかく収まっていた笑いの発作が再び引き起こされたらしく、慌ててクリスが顔を背けた。何か機嫌を損ねたかと若者がおろおろするが、ヒューゴにはそんな状況をフォローするほどの心理的余裕は無い。心の底から憂鬱なため息をついて、もう一度絵画を見上げる。
 仕方の無いことだ、とは思うのだ。当時から< 炎の英雄>の二つ名はヒューゴの手を離れ、一人歩きをしていたものだし、実像とはかけ離れた期待は常にヒューゴの重圧としてあった。それが百年も経てばどうなるかなんて……分かりきっている。
 そうはいっても、想像は予想といったものには、他と同じく限度というものがあるわけで。
「……これはないよなぁ……」
 美々しくりりしく綺羅綺羅しく、誰もが憧れる英雄として爽やかな笑みを振りまき人々導く、理想化された自分(もちろん身長は平均以上ある美青年として描かれている)の下で、現実のヒューゴはがっくりと肩を落としたのだった。

[小話]道標を胸に。

2007/10/17 水曜日

 窓の外でいまだ続いている喧騒に、ティエンは唇を固く噛み締めた。何も知ろうとせず、ただ無邪気にはしゃぐ群集が、今はひどく疎ましい。
 差し向けられた軍を少数の兵で破り、レインウォールの防衛に成功したのだ。ゴドウィン家に対する敵愾心と領主バロウズ卿への信頼、今後の相場への動きに対する期待とで、いまやレインウォールの街中が浮かれているといっていい有様だった。帰って来た王子を歓呼の声で迎え入れ、夜も更けた今なお、お祭りじみた騒ぎが続いている。そうした雰囲気をいち早く察知したのか、それとも彼こそがそうした街の雰囲気を演出したのか……サラム・バロウズは祝勝と言うには華々しすぎる宴でティエンたちを労ってくれた。とはいえ、今はもうその宴も終わり、他の仲間たちはそれぞれ与えられた部屋で、疲れた身体を休めているはずだ。
「……ぐぅッ……は、ぁ……ッ」
 こみ上げる吐き気に逆らわず、洗面台の端に手をついて、ティエンは嘔吐する。何度も何度も……胃の中にはもう何も入っておらず、胃液しか出てこないが、それでも吐き続ける。

(……たすけて……)

 覚悟は、していた。そのはずだった。奪われたものを取り戻す、そのために軍主として祭り上げられることも、一時的とはいえリムスレーアと対立する立場になることも、承知の上で選んだはずだった。
 けれど、それは現実を知らない愚か者の、薄っぺらい覚悟に過ぎなくて。
「……はぁッ、……はッ……」
 『取り戻す』――そのために奪ったもの。ティエンに率いられ、レインウォールを出て帰ってこれなかった兵士と……自分達の刃に倒れたゴドウィン側の兵士達の、命。
 敵、と断じるのはたやすい。けれど、彼らも同じファレナに住む、ティエンが女王家に連なるものとして守らなければならなかった、民だ。そして何よりも彼らにも帰りを待つ親や子や兄弟、恋人が居て、誰かにとって『かけがえのない誰か』だったはずだ。

(たすけて、リム……!)

 それが大切な恋人を守ることにも繋がる、そう信じて志願した者もいるかもしれない。故郷の家族を養うために兵となり、生活を切り詰め給金のほとんどを仕送りにあてていたものも、いるかもしれない。立身出世のために兵となったものも、集落の総意として人柱同然で連れてこられたものも、いたのかもしれない。
 ティエンには確かめるすべはないけれど、それぞれの人生にそれぞれの大事な人が居て……そして、ティエンはそれを踏みにじり、屍の山へと変えた。リムをとりもどす、そのために。
「……ふ、……」
 一時的かもしれないがようやく吐き気がおさまり、口の中を漱ぐ。目の前の鏡に視線を向けると、薄い明かりにぼうっと照らされて、青ざめた顔に冷たい汗をびっしり浮かべている自分の姿がぼんやり映った。幽鬼のように荒んだ空気を纏う自分の影の向こうに、陽光を一身に浴びて朗らかに笑うリムスレーアの幻が見えて、ぎゅっと固く眉根を寄せる。
『兄上!』
 弾むような声音が、脳裏にこだまする。小さな体で精一杯胸を張り、自明の理のように彼女は全面的な信頼を口にするのだ。
『兄上なら大丈夫、間違うはずが無い。兄上が選んだことなら、きっとそれは正しいことなのじゃろう。わらわが保証しても良いぞ!』
「……ありがとう、リム……」
 唇の端にかろうじて笑みらしきものを浮かべ、ティエンはそっと鏡に呟いた。
 都合のいい、記憶の再生だと自分でも分かっている。確かにリムスレーアはかつてそういったことがあるが、それは今のティエンに向けてではない。守るべき民を自ら殺めたティエンに、今でもリムスレーアが同じことを言ってくれるとは限らない。
 それでも、思い出の中の笑顔ひとつ……それだけで、自分を見失わずに住む。血の匂いに惑わされず、もう一度歩き出すことができる。きっと、これからも何度も迷うだろうけれど、道標は胸のうちに残されているから。
「……ごめんねリム。もう少しだけ、待ってて」
 揺れることはあっても、立ち止まることはない。いかなる犠牲を払ってでも、手の中に取り戻したいものがある。迷うたびに、何度でも誓い続ける。

(必ず、そこへ帰ってみせる)

[雑記]一息。

2007/10/10 水曜日

仕事がひと段落つき、パソコンのデータ移転などなど余分な仕事も一息ついて、ようやくほっとした御月ですおはようございます。

とりあえず生きていますのご報告のみ。更新等はまた後ほど。

…それにしても、あまりの更新のなさっぷりになんだか自分でめまいがしそーです。更新しやすいシステムに変えたというのになんてこったい…。

[雑記]解説。

2007/9/16 日曜日

このところ事務所に泊まることが増えたようで、内心なんだかなー、な御月ですこんばんは。やっぱりアレだ、仕事場を居心地良くしちゃだめだなー。帰るのが面倒になって、泊まることが増えてきています。近所に弁当が特に安いスーパーがあって、食料調達が容易なのがまた…。
気をつけなきゃなー。

タイトル「解説」、そういえば小話再録の解説してなかったなーということで。

な:泣いてもいい場所
気位が高いリムスレーア(ミアキスに対し、「わらわが泣くと負けになるから」みたいに言って涙をこらえるシーンは、もう本当にかわいかった!!)と同じように、王子もリムを助け出すまで責任感から泣けなかったんじゃないかと思うのです。
軍主に祭り上げられ、多くの命を預かる立場になった以上、泣き言はいえなかっただろう王子と、飾りとはいえ女王として気を張っていただろうリム。互いにとって互いが護るべき存在であり、甘えることができ、泣くことができる場所というか。
王子×リムは正直、血縁という禁忌以上に、互いの存在だけで完結してしまう部分があり、閉じた世界になってしまいがちで、それが「二次創作」として書きにくい部分かなとも思うのですが、同時にそれこそが「綺麗な部分」でもあって……何言ってんだかなーもう。

に:人間の欠片
「小話」というには微妙に長いものでしたが、拍手でコメントいただいて掲載しました。
御月のクリス様像は、わりとこんな感じです。物凄く腕は立つけど、人間的に成長する機会を失ったまま大人になったというか。
クリス様が何歳で両親を失ったのか、ゲーム中に明記はされていなかったと思うのですが、なんとなく人間的に土台が出来上がる前……それこそ10歳になるかならないかぐらいだったんじゃないかな、と勝手に思ってます。で、その後は騎士団に入ったりして。
騎士団は完璧男社会のようですから、女性的な情緒を育むことなんて、できなかったんじゃないかと思うんですよね。ましてやあれだけの若さで上のほうにいたら、周囲のやっかみだってあったでしょうし、そもそも女性騎士自体が少ないでしょうから、心を開ける友人というのはあんまり居なかったんじゃないかと。で、感情的になれば「女はすぐに感情的になるから」なんていわれたりして……結果、恋愛感情を理性的に理解しようとしてできなくて、よくわからなくなったんじゃないかな。
とりあえずレオはクリス様の保護者というか後見人っぽいとイイ。

ぬ:微温い恋に終わりを告げる
短いけどかなり会心の出来。というか、本来の「小話」はこうあるべきというか…。
恋愛に関しては、ヒューゴのほうが先に「大人」になってそうです。で、クリスの中身の成長を待たなきゃと思いつつ待ちきれないで行動に移してしまうのは、まぁ…オトシゴロということで。
一言で言うと、クリス様が覚悟を決める話、かなぁ。

ね:猫と犬と被害者と
天月公司唯一のパンシザ作品。今後増えるかどうかはわかりませんが、9月現在の本誌が非常に熱いのと単行本(最新刊:8巻)がかなりイイ感じなので、萌えが増殖する可能性もあります。
さて。内容的にはさほど意味が無い本当に「小話」なんで、かわりに苦労話をすると……少尉と伍長の表記に悩んだ話ぐらいですかね。「マルヴィン少尉と呼べ」というセリフが7巻にあったので、オレルド&マーチスはともにラストネームということになりますが、マルヴィンとオーランドっつーのも堅苦しいし、少尉と伍長ってのが一番わかりやすいんですが見た目的にどうよ、ということで最終的にアリスとランデルに。アリスたんはさておき、ランデルって見慣れていないせいか、文字を打っている自分でさえなんだか目がもにょりますがまぁしょうがない。
動物にたとえるとアリス少尉は猫科の動物、伍長はグレートピレニーズ、ステッキン曹長はチワワとかポメラニアン、ハンクス大尉は…狸、オレルド准尉は……うーん。

の:野良猫の餌付け
根気良くあせらず距離を縮めようとするクリス様と、恋心ゆえに照れてぶっきらぼうに応対するヒューゴの話。
もちろんクリス様は、ヒューゴのぶっきらぼうな対応は仕方のないことだと思ってるので、ヒューゴの微妙にゆれる「乙女心」なんざ微塵も気づいていません。というか、クリス様にそういう気遣いを要求するほうが無謀だと思います。

 

 

拍手御返事
木川様:えへへー、ありがとうございますー! 結構時間かけていじくりまわしたんで、自分では慣れちゃって、見やすいとか操作しやすいとかわからなくなっちゃうんですよね。一応テキストサイトですんで、見にくかったら本末転倒なわけで…ほっとしました。更新しやすいシステムにしたんで、これからはばりばり増えるはず…増えたらいいな……。

[小話]待ち人来る。

2007/9/11 火曜日

 本当は少しばかり、気に病んでいたのだ。自分ばかりが兄を好きで、自分ばかりが兄に会いたくて。わがままを言っているのではないか、困らせているのではないか……兄は本当は会いたくはないのに我慢しているのではないか、と。
 だから、確かめようと思っただけなのだ。今日は自分から会いに行かない。けれど、兄がもし会いにきてくれたなら、兄も同じように自分を思ってくれている。そう、確かめたかったのだ。
 ……だから、現状は自業自得だと分かっているのだけれども。

「うぅ~……」

 まるで親の仇のような目つきで、目の前の教科書を睨み付けた。母アルシュタートとはまた違った美姫になるだろうと将来を期待されている可憐さが、滲み出る険悪なオーラによって台無しにされている。常に無くご機嫌斜めなリムスレーアの様子に、教師も女官たちも戦々恐々と眺めるばかりである。この場にあって唯一リムスレーアを嗜めることができるミアキスは、どうやら現状を面白がっているらしく、にこにこと見守るだけで一言も発しない。

「兄上めぇ~……」

 態度はどうあれ、一応きちんと手を動かして問題を解いているのは、流石というべきだろう。勝気で誇り高いリムスレーアは、だからこそ己に課せられた責務から目をそむけたりはしない。個人の感情で義務から逃げ出すようでは、多くの民の命を預かることなどできないと、リムスレーアはわかっているのだ。
 怒りによって手に余分な力が入り、紙が今にも破れそうなのはまぁ……愛嬌とでも言うべきか。

「兄上はなぜ、わらわに会いに来ないのじゃ~!」
「ひ、姫様……」

 叫んだ拍子に、ペン先が紙をびり、と突き破った。とうとう爆発の時がきたか、と女官たちが肩を縮める。

「わらわは兄上に会いたいのを我慢しておるのに! 兄上はちっともわらわに会いに来ようとせんではないか!」

 さっと紙を丸めて捨てると次の紙を用意し、一文字一文字感情をぶつけるように答えを力強く書き込んでいく。声に出す言葉と書き込んでいる言葉がきちんと違うのは、いっそ器用とさえ言えるかもしれない。

「朝も! 昼も! わざと時間をずらしたというのに!」

 多忙だけれども家族想いのアルシュタートとフェリドは、できるだけ家族の時間をとるように心がけている。その表れのひとつが、「食事はできるだけ家族そろってとる」という不文律だ。太陽宮の一室、客人を迎えて宴を催すような、豪華だが会話のしにくい部屋ではなく、家族が顔をあわせて喋れるような小ぢんまりとした部屋でとる、家族4人とサイアリーズ、それにミアキスとリオンも加えての食事は、多忙な中で唯一残された「家族の時間」だった。
 それに、わざと行かなかった。朝食の時も昼食の時も、勉強があるといって顔を出さず、自室で食事をとった。
 もしも自分なら、と思う。もし自分なら、兄が顔を出さなければ、調子が悪いのか、何か気分を害するようなことでもあったのか、心配になって様子を見に行く。だから……兄も自分の様子を見に来てくれるのではないかと、期待した。

「……うぅ~……」

 ふにゃ、とリムスレーアの顔が歪む。素直な感情を表す琥珀の瞳に、じわりと涙が浮かんでいた。
 いまやリムスレーアの手は完全に止まっていた。零れ落ちそうな涙を、懸命にとどめるだけで精一杯なのだ。

「兄上の大馬鹿者~……」

 こんなことになるなら、知ろうとしなければよかった。知りたくなど、なかった。
 きっと兄が好きだったのは、昔の自分なのだ。一度兄を嫌った妹など、もう好きではなくなったのだ。だから来てくれないのに違いない。それでも、今まで自分のわがままに付き合ってくれたのは、単純に兄が優しいからだけなのだ。嫌々、仕方なく受け止めていただけにすぎないに違いない。
 嫌われているのを知ってしまったこれから、どう兄と接すればいいのだろう。もう、今までのように甘えることなどできそうにない。
 堪えきれない大粒の涙が一粒、ほとりと文字の上に落ち、インクが滲んでいく。じわりじわり広がる黒いシミは、リムスレーアの心の中を表しているかのようだった。
 弱音が、小さな唇から零れ落ちる。

「……わらわだって、兄上なんか……兄上のことなんか……」

 嫌い、と心にも無い言葉を呟きそうになった、そのとき。

「リム!」

 涼やかな声で名を呼ばれ、慌ててリムスレーアは振り向いたが、そこにティエンは居なかった。ぐるりと部屋を見回したが、兄の姿はどこにも見当たらない。溜息をついて机に戻ろうとした刹那、今度はこつりと窓が小さく叩かれた。
 窓に近寄ろうとするミアキスを無言で制し、リムスレーアはそろそろと窓辺に近寄る。静かに窓を開くと、爽やかな風が室内に飛び込んでくる。
 ……そして、「それ」がリムスレーアの視界に、入った。

「よかった、気づいてくれて」
「……!?」
「危ないから、落ちないように気をつけてね」
「な、な、な、なんで兄上がこんなところに居るのじゃ!?」

 窓のすぐ下から笑顔で手を振られて、リムスレーアの思考が一瞬焼ききれそうになった。動揺のあまり目を白黒させるリムスレーアとは対照的に、ティエンが暢気に理由を語る。

「なんでって……リムを驚かせようと思って」
「……確かに物凄く驚いたが……」

 シンプルな理由に、思わず肩の力が抜けた。先ほどまで零れていた涙は、驚いたせいか引っ込んでしまったようで、今はもう欠片も見当たらない。苦笑ともつかない笑みを浮かべて、リムスレーアは忠告通り落っこちないよう、用心深く窓の下を覗き込んだ。
 窓のすぐ下に兄の姿が見えるのは、おそらく壁に大きな梯子を立てかけているのだろう。下のほうで、心配性のリオンがおろおろしているのが見える。どこにこんな大きな梯子があったのか、リムスレーアは知らないが……ここまで持ってくるのは、相当苦労したに違いない。
 大きい分、抱えて運ぶには難しいだろうし、何よりも大きい分重量だって相当あるはずだ。ティエンが自分で運んだのかどうかは分からないが、それにしても簡単に運べるような代物ではない。

「今日はいい天気だから、外で一緒にお茶にしよう? カイルから取って置きのお茶をもらったんだ」
「しかし……」

 思いがけない言葉に、リムスレーアは視線をちらりと机に向けた。
 ティエンの申し出は嬉しい。一も二もなく飛びつきたくなるほど、嬉しい。けれども、自分は次期女王で……今は勉強中だ。義務をおろそかにするわけにはいかない。
 うろうろと視線をさまよわせるリムスレーアに、ティエンがもう一度笑った。

「リムは努力家だけど、たまには息抜きも必要だよ。それに……たまにはリムも、僕の我侭に付き合ってほしいな」
「……兄上はずるいのじゃ……」

 優しすぎる兄の言葉に、さっきとは違う涙が浮かびそうになった。
 ティエンと一緒にすごしたいというのは、本当は自分の我侭だ。けれどもそれを、ティエンは「自分の我侭」だと言ってくれる。リムスレーアはティエンの我侭に付き合っただけで、悪くは無いのだと……だから断るなと、甘やかしてくれるのだ。
 
「ずるい僕は嫌い?」
「嫌いなんてことあるはずないのに、わかっててそう聞くのはもっとずるいのじゃ」
「あはは、そうかも。……じゃあミアキス、悪いけどリムを借りるね」

 確認するように振り向くと、ミアキスはいつもと同じ笑顔で手を振ってくれた。言葉には出さないけれども、「行ってらっしゃい」と見送ってくれているようで、なんだか心が温かくなる。
 大好きな兄とお日様のもとで一緒にお茶を飲んで。そうしてゆっくりしたら――もう一度、勉強に戻ろう。また次、兄と顔をあわせたときに、「わらわはきちんとやっておるぞ!」……そう、胸を張れるように。大きくなったとき、同じような優しさを兄に返せるような、しっかりした大人になれるように。

「さ、おいで、リム」
「うむ!」

 窓の下から差し伸べられた手を迷わずつかんで、リムスレーアは窓を乗り越えたのだった。

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