[小話]許されるならば

2008/5/1 木曜日

 かつかつと階段を下りる足音に気付いたらしく、カウンターに座っていたザックがくるりと振り向いた。その手には相変わらず麦酒を満たした大きなジョッキが握られていて、セシリアは素直に凄い、と内心感嘆した。酒全般が苦手というほどではないが、セシリアが飲めるのは薄い果実酒ぐらいだ。ザックが好んで飲む麦酒や蒸留酒などは苦いやらきついやらで、正直なところ何がそんなに美味しいのか、理解ができない。何杯も飲むからにはきっと、ザックにとっては美味しいのだろうけれど。
 それとも、もっと大人になればわかるのだろうか。ザックぐらいの年齢になれば。
「……どうした姫さん」
「ふふふ、内緒です」
 ザックがいぶかしげに声をかけてきたが、セシリアは曖昧な含み笑いで返答を避けた。「ザックのように腰に手を当てて、麦酒を一息に飲み干す自分を想像してしまいました」と正直に言おうものなら、大笑いされるかもしれない。それだけならまだしも、今ここで実現してみるかなどと言われるといささか困ったことになる。ザックの挑発に乗って苦い麦酒を飲むはめになるのも、断ってなんとなく気まずい雰囲気になってしまうのも嫌だった。
 ……最後の、夜なのだ。
 それにしても、とザックが麦酒を煽りながら、悪びれない笑顔を向けた。
「すまんな姫さん。面倒なこと頼んじまって」
「別に面倒事ではありませんけど。……これからは、あんまりロディにお酒飲まさないで下さいね」
「わーかってるって。大丈夫俺様に任せとけ」
 できるだけ厳しめの口調で釘をさしたものの、返されたザックの言葉は限りなく軽い。だから心配なんだ、という言葉を飲み込み、かわりにしみじみため息をついた。ちらりとハンペンのほうを見ると、どうやら同じ感想を抱いたらしい青いカゼネズミがえっへん、と小さな胸をそらした。
「ザックの『大丈夫』はイマイチ信用できないからね。オイラがきちんと無茶しないように見張っておくから、安心してよ」
「よろしくお願いしますね」
 一人と一匹で話が成立した途端、ザックがぶつくさと文句を零すが、ハンペンとセシリアはそれを完全に黙殺した。亜精霊より信用が無い人間というのもおかしな話だが、こういう場合は日頃の行いがものを言うものだから仕方が無い。
「オヤジ、今度は蒸留酒くれ」
「あ、じゃあわたしはホットミルクお願いします」
「あいよ」
 ふてくされたザックが追加注文するのに便乗してセシリアも声をかけると、カウンターの向こうから落ち着いた渋い声が返ってきた。品物を待つ間ふと訪れた沈黙に、セシリアは小さくため息をついた。滲みそうになる涙を振り払うように、できるだけ不自然にならない明るい声を上げる。
「また。いつでもいいから、アーデルハイドに来て下さいね。ザックとロディならもう顔見知りですから、城の兵士達もすぐに通してくれるでしょうし」
「それはいいけどさ……」
 セシリアの空回りを抑えるように、ザックが静かな眼差しを向けてきた。声音にも表情にもセシリアを責める色は微塵も無い。むしろ純粋に心配してくれているのが分かるだけに、つきりと胸が痛んだ。その話題に触れたくなくて、できるだけ違う……それも明るい話題を持ち出したのだが、どうやらこの青年にはお見通しだったらしい。
「なぁ姫さん。ロディには言ったのか?」
「……いえ」
 明日早朝、セシリアはひとりでここを発つ予定だった。――アーデルハイドの女王となるために。
 今夜の宴会は、その送別会代わりだったのだ。ハンペンもザックも、それを知っていた。今日という日の意味を知らなかったのは、ロディだけだ。
「部屋には、急用ができてアーデルハイドに戻らなければならないことを手紙に書いて、残しましたから。しばらくはそれでごまかせると思います」
「姫さんは、それでいいのか?」
「はい」
 最初の旅と異なり、今の旅は特にこれという明確な目的があってのものではない。もっとも、ロディもザックは三人と一匹で世界を回るその前から渡り鳥だったわけで、ある種元に戻ったようなもので、もともと目的などあるような無いような状態だった。セシリアにとっては、表向きは見聞を広めるためではあるが、強いていうなら再びザックとロディとハンペンとで旅をすること自体が目的といえるかもしれない。
 できることならば、ずっとこんな日々が続けばいいと願っていた。けれど同時に、何時かこのときが来ることを覚悟していた。
 セシリアには、アーデルハイドの公女として課せられた責務がある。それを重たく感じたこともあったが、今はそうは思わなくなっていた。セシリアがアーデルハイドを、ファルガイアを愛する気持ちは自体は間違いなく最初からあるもので、「公女だから」「守護獣の巫女だから」という理由からよるものではないと、セシリア自身気付いたからだ。公女でなくても、守護獣の巫女でなくても、きっとできることをできる範囲でやっていたはずで……それは、公女であっても同じなのだと、今のセシリアなら自信を持っていえる。
 それでも。
「待たせたな、ホットミルクと蒸留酒だ」
「……ありがとうございます」
 酒場の主人から受け取ったミルクと一口飲むと、柔らかい甘みと温かさとが口の中に広がった。主人の厚意で蜂蜜が入っているようで、かすかな香りが鼻をくすぐる。優しさと甘さと温かさが混然となってセシリアを揺さぶった。
「……姫さん?」
「大丈夫……大丈夫です。ただ、少しだけ……今は、見ないふりをして下さい」
 カップを両手で抱え込み、セシリアは深く俯いた。その滑らかな白磁の頬を、真珠の雫が伝わり落ちる。セシリアの望みどおり言葉はかけず、ただ見守ってくれるザックの優しさに甘えて、セシリアは静かに涙をこぼした。
 己の決断に後悔は無い。誰に強制されたのではない、自分自身が選び決めた道だ。ヨハン含め国民からの望みであったにしろ、アーデルハイドとファルガイアのためにできることをできるだけやりたい自分の気持ちの為に、選んだのはセシリア自身だ。
 ……許されるならば、ずっと夢を見ていたかった。気の置けない仲間と……誰よりも大事な人と、世界を回って助け合って、時には軽口を叩きあって。ジェーンと女の子だけの秘密のお話をしたり、マリエルとゆっくりハーブのお茶を楽しんだり……本当に、夢のように楽しい日々だった。
 けれど、夢はいつか、覚める。終わらない夢など、ありやしないのだ。
 だから。
「ザック……今夜は最後まで、しっかり付き合って下さいね」
「いや、俺はいいけど……姫さんは朝早いんじゃなかったか?」
「早いけどいいんです。仲間と過ごす最後の夜なんですから誰にも文句は言わせません」
「……セシリア、なんか酔っ払いみたいなこと言ってるよ」
「えー、姫さんホットミルクで酔ったのかよ? ずいぶんとまぁ器用なことで」
「私は酔ってません! それより大体ザックのほうがよっぽど……」

 見たかった夢の最後の一滴まできちんと覚えて記憶の宝箱にしまいこんでおきたいと想った。