[小話]黙祷

2008/1/18 金曜日

 太陽宮の高みから、時間を告げる澄んだ鐘の音が微かに降ってくる。直線的にはさほど距離はなくても、間を埋める建造物が鐘の響きを減衰させているのだろう。むしろ、あれほど分厚い建物を通して尚響くことに、シェンルフィーダは軽く驚いた。なにしろ太陽宮は広い。裏手にあるこの場所まで届くとは、思っていなかったのだ。
「……兄上には、わらわの感傷に付き合わせてすまなんだな」
「リムが謝る必要なんて、無いんだよ」
「……そうか……」
 頼りなく揺れる呟きにすかさず言葉を返したものの、リムスレーアが納得していないことは声色からすぐに知れる。分かるだけに……シェンルフィーダとしては、つらいものがある。
 内乱までのリムスレーアなら、素直にシェンルフィーダの慰めに騙されてくれていた。静かに微笑んで、あるいは向日葵のような笑顔で、「ありがとうなのじゃ、兄上」と受け止めてくれていた。安易な言葉に流されることを許さず、けれど突き放す厳しさも持てず、唇を固く結んで己を責める表情なんて、本当ならまだ知る必要さえなかったはずなのだ。
「……これは、リムだけの問題じゃない。僕とリムとが、等しく負うべきものなんだよ。……だって、兄妹だろう?」
「そうじゃな……」
 言葉だけでは足りなくて、妹とつないだ手のひらに少しだけ力を込めると、ようやくリムスレーアは小さく笑った。まだ痛みが残った表情だが、それでも笑ってくれたことにほっとする。
 ソルファレナ奪還を果たしてから、今日でちょうど一年という時間が経った。マルスカールを追い詰め太陽の紋章を取り戻し、全てに片をつけたのはもう少し後のことではあるが、それは事情を知る一部にとってであり、国内的には内乱が終結したのは一年前の今日という日になっている。その記念日を華々しく祝そうという案がつい最近出されたのだが、リムスレーアはそれを却下した。
『ゴドウィン指揮下で戦に赴いた者達も、守らねばならぬ民であったことに代わりは無い。ゆえにその日は、敵味方の区別無く、内乱により失われた全ての者達に哀悼の意を捧げるべきだと……わらわはそう、思うておるのじゃ』
 ……そうして、シェンルフィーダたちはここに居る。追悼式だ何だと慌しい一日が終わろうとしている時間ではあるけども、一応「今日」という日のうちに来ることができた。
 もうとっくに日が落ちている時間なのに、巧みに計算され配置された明かりのお陰で薄暗さは無く、全体がぼんやりと薄明るい。人が通るような場所ではないのだが、庭師が丁寧に世話をしてくれているらしく、広い空間のあちこちで美しく花々が咲き誇っている。いろんな種類のものが植えられているのは、そこに眠る人々の好みを反映してのことなのだろう。所々視界に入る墓石が無ければ、ただの庭園にしか見えないここは……女王家縁のものが永遠の眠りにつく墓地なのだ。
 生まれる前に祖父が、物心着く前に祖母が亡くなったため、シェンルフィーダは一度しかこの墓地を訪れたことが無い。ここに眠る人たちは血縁ではあるけども、記憶に無い人たちであるせいか、そんな感慨はひどく薄いものだった。正直なところ、どこに誰が眠っているのかさっぱり分からない有様だ。母と祖母の間には言葉では現せない確執があったようで、なんとなく来難かったこともある。
 だが、リムスレーアにとっては通いなれた場所のようだった。迷いの無い足取りでゆっくりとシェンルフィーダを導いていく。やがて手をつないだまま二人並んで、まだ新しい墓石の前で足を止めた。清らかな白百合に囲まれた墓石には、そこに眠る者たちの名が刻まれている。
 すなわち。
「父上、母上……お久しぶりです」
 衣服が土で汚れるのも構わず、シェンルフィーダは膝をついた。真白い大理石に刻まれた両親の名はまだ彫り跡も新しく、胸の奥がつんと刺激される。父と母とを喪い、妹と引き離され、住み慣れた太陽宮から逃げるように脱出し……全てを取り戻すことを誓った日は、そう遠い過去のものではない。
 自分でさえ、そうなのだ。リムスレーアにとっては、尚のことつらい記憶に違いない。ましてや、リムスレーア自身は何も語らないし、主に従って太陽宮に残された人々は決して口を割ろうとはしないが、前女王と騎士長である両親の葬儀にも、唯独り残る王族として立ち会っていたはずだ。誇り高く、己に課せられた責務から決して眼を逸らさない妹だから、アルシュタートの遺体と、亡骸さえ残さず消えたフェリドの遺品とが埋葬されるその様子を、この場で見ていたに違いない。
 俯けば涙が零れ落ちるから、昂然と顔を上げて。仇と信じ夫と呼ばねばならない立場の男を隣において。
 僅かに十歳を超えたばかりの華奢な妹が、今まで見てきたものの惨さを思うと、シェンルフィーダはひどく居た堪れなくなる。過去はどうしようもないと知りつつ、それでも当時の自分に今と同じだけの力があったなら、という想いが拭いきれない。
 リムスレーアに気付かれないよう、密やかにため息をついて、シェンルフィーダは視線を横に滑らせた。両親の墓碑に隠れるようにして、誰の名も刻んでいない小さな石が置いてある。
「……ありがとう、リム」
「兄上に礼を言われるようなことは、何もしておらぬ」
 答える声音が僅かに固いのは、何について礼を言ったのが察したからだろう。裏切りを決して許せない潔癖な性格と、それでも何を想っての行動だったのかを知る聡い理性とで、今も尚葛藤しているに違いない。リムスレーアの中で『彼女』は、憎みきることも受け入れることもできない、中途半端な立場のまま残っているのだ。
「……ほら。リムも挨拶しなきゃ」
「そうじゃな……」
 小さく促すと、リムスレーアが神妙な顔で頷いた。さらりと長い衣服の裾を払い、シェンルフィーダの隣で同じように跪く。祈るように手を組み、双眸を伏せた妹から視線を外し、シェンルフィーダは再び小さな石碑に向き直った。
 彼女がその命を落としてから、まだ一年しか経っていない。けれどその間に、いろいろな出来事があった。喜ばしい報せも、少し寂しい話も……語りたいことなら、たくさんある。
 けれど、何よりもまず最初に話したいのは。
(あなたのおかげで、リムはまだ迷っている。ひどいじゃないですか、叔母上)
 それは悪いことをしたねぇ、と応じる声が聞こえたような気がして、シェンルフィーダは小さく苦笑した。
 公式には、サイアリーズは『王子軍と行動を共にしながらギゼルに内通した裏切り者』という事になっている。サイアリーズの真意はどうあれ、表面的には彼女の行動はまさしく『裏切り』に他ならない。そのため、人々の間に広がった噂を追認するような形で公式発表を出さざるを得なかった。その後、ソルファレナ奪還の際死亡したサイアリーズの遺体は、反乱に加担したザハーク達と共に罪人として共同墓地に葬られた、と発表した。
 名が記されていないこの石の下に誰が眠っているのか、知っているのはほんの数人だけだ。
(僕が居ない間、叔母上とリムはどんな風に過ごしていったのですか)
 ソルファレナ解放のさなか息絶えたサイアリーズを密かにここへ移したのは、リムスレーアの独断によるものだ。シェンルフィーダでさえ、それを知ったのは混乱が収まりしばらくしてからで、そのときにはもうここに埋葬された後だった。
 リムスレーアが何を思い、そんな風に行動したのか、シェンルフィーダには分からない。一度だけリムスレーアに理由を尋ねたことがあるのだが、相当長い沈黙の後に「母上にとっては、たった一人の妹だから」という言葉が返ってきただけだった。
 それが本心からなのか、それとも言い訳なのか、見分けがつかなかった。もしかしたら、サイアリーズとリムスレーアの間でそんな話が出たのかもしれないし、あるいは妹なりの叔母に対する感謝の表れなのかもしれない。サイアリーズが太陽宮へ戻ってから、リムスレーアとどんな会話を交わしていたのか……リムスレーアは何も語ろうとしないし、サイアリーズもまた何も教えてくれない。
 だから。
(母上、父上、叔母上……)
 知りえない過去の経緯を気に病むのではなく、未来を。取り戻したものを喪ってしまわぬよう、心のうちで誓う。
(どうか、見守っていてください)
 ふと眼を開け隣を見ると、リムスレーアはまだ俯いたままだった。やがて長い睫が小さく震え、ゆっくりと琥珀の瞳が現れる。
「……すまぬ兄上、待たせてしもうたかのう」
「いいや全然。リムは、父上たちとどんな話をしたの?」
「内緒じゃ。そういう兄上は?」
「僕も、秘密」
 裾についた土を払い落とし、リムスレーアに手を差し伸べると、するりと細い手がおさまった。二人並んで、来た時と同じようにゆっくり歩き出す。
「……そろそろ行こうか。ミアキスがきっと待ちくたびれてるよ」
「そうじゃな」
 この手が二度と離れないよう、祈りをこめて繋いだ手に力を込める。
(リムは、僕が必ず護りきってみせる)
『頼みましたよ、シェン』
 三人それぞれの柔らかい励ましが、シェンルフィーダの耳を掠める。幻かもしれないが、誓いを聞き届けてくれたのだと……その答えなのだと、そう思いたかった。