[小話]昔話は変遷する

2007/11/2 金曜日

 ある程度、予想はしていたのだ。
 記憶というものは、どうしたって風化する。人々の口から口へと伝えられるたびに、ある部分は抜け落ち、あるいは付け足され、いつの間にか事実は「綺麗で完全な『物語』」へと変化していく。人に伝わらない、個人の中の記憶でさえも、想い出は時間と共に色褪せ、美しく朧げなものへとぼやけていく。
 記録だとて、風化からは逃れられない。いや、公正であり事実であると信じられやすい分、文字による記憶のほうが性質は悪いかもしれない。何時・誰が・どの立場から書いたものか、それによってただ1つの事実が様々な思惑で解釈され、千変万化の色合いを見せてしまう。
 ヒューゴ自身、記憶も記録も当てにならないことを知っている。当時どれほど広く知られていた事柄も、時間と共に忘れられてしまうし、伝えられなくなってしまう。ヒューゴがまだ何も知らない「子供」だったころ、< 炎の英雄>がかつて何を想い、行動したのか、まったく知らなかったように。生身の人間の苦悩も葛藤も置き去りにされ、ただの「御伽噺」が出来上がった過去を、知っている。
 とはいえ。
「……」
 目の前に展示されている現実は、ヒューゴの生半可な予測や覚悟を軽々と打ち砕いて余りある破壊力を有していた。
 呆然と見上げるヒューゴの隣で、クリスは顔を背け肩を震わせている。笑い転げたいのを懸命に押さえ込んでいるのだろう。薄情だと怒ればいいのか、一緒になって笑い飛ばすのがいいのか、対処に困ったヒューゴは途方にくれて、とりあえず視線を下に落とす。先ほど見たものを、脳と心と両方とが認識したがらないようで、うまく考えが回らない。
「あの、どうか……?」
 片や絶句、片や笑いをこらえる、といった常に無いであろう反応に、案内人の若者がおずおずと尋ねた。三人の前にかけられた巨大な絵は百年ほど前の戦を描いたもので、この城を訪れる観光客の間でも特に人気が高いものだ。今まで感動されることはあっても、笑われる事など若者にとっては初めてなのだろう。
 さもありなん、とヒューゴはぼんやり思う。
 芸術に対する素養はあまり無いヒューゴでさえも、この絵は素晴らしいように見えた。大胆な構図に独特の色使いが美しいが、なんといっても人々の表情が特に見事だといえた。戦の一場面だというのに凄惨さは感じさせず、外敵を討ち払うべく立ち上がった人々が、活き活きと描かれている。中でも、中央に立つ人物は特に思い入れをもって描かれたらしく、たかが絵画とは思えない強烈なカリスマと、今にも動き出しそうな躍動感とが、画布を通じて伝わってくるようだった。モチーフがモチーフでさえなければ、ヒューゴもクリスも手放しで絶賛したに違いない。
 はぁ、とため息をついたクリスが、ヒューゴのほうへと視線を向けた。ようやく笑いが収まったらしいが、よくよく見ると目元にも口元にも、もうひとつ声色にも笑みが滲んでいる。
「……ヒューゴ、感想は?」
「おや、こちらの方もヒューゴ様とおっしゃるので?」
 クリスの言葉に、ヒューゴよりも先にクリスが先に反応した。良く言えば素直、悪く言えば空気が読めない性格なのだろう、純朴そうな笑みを浮かべて朗らかに言葉をつなぐ。
「では、< 炎の英雄>様にあやかって名づけられたのかもしれませんね。あまり一般には知られていませんが、歴史書によりますと、< 炎の英雄>様も『ヒューゴ』というお名前だったそうですよ」
「……ッ!」
 若者の言葉に、せっかく収まっていた笑いの発作が再び引き起こされたらしく、慌ててクリスが顔を背けた。何か機嫌を損ねたかと若者がおろおろするが、ヒューゴにはそんな状況をフォローするほどの心理的余裕は無い。心の底から憂鬱なため息をついて、もう一度絵画を見上げる。
 仕方の無いことだ、とは思うのだ。当時から< 炎の英雄>の二つ名はヒューゴの手を離れ、一人歩きをしていたものだし、実像とはかけ離れた期待は常にヒューゴの重圧としてあった。それが百年も経てばどうなるかなんて……分かりきっている。
 そうはいっても、想像は予想といったものには、他と同じく限度というものがあるわけで。
「……これはないよなぁ……」
 美々しくりりしく綺羅綺羅しく、誰もが憧れる英雄として爽やかな笑みを振りまき人々導く、理想化された自分(もちろん身長は平均以上ある美青年として描かれている)の下で、現実のヒューゴはがっくりと肩を落としたのだった。