[小話]露霜は二度凍るのか?

2007/2/18 日曜日

 ヒューゴ、と呼ばれて振り向いた先には、顔なじみの男が立っていた。古い仲間の姿に、思わず肩の力が抜け……同時に苦笑する。よくよく考えれば、自分を「ヒューゴ」と呼ぶのは顔見知りだけで、肩の力を抜けない相手は「炎の英雄」と呼ぶはずであり、姿を確認する前に気を緩ませることができるはずなのだ。それすら気づかないということは、自分で思っているよりも周りが見えなくなっているのかもしれない。
 とはいえ、無理もないことではある。このところ、ビュッデヒュッケ城の中を歩くだけでも、ヒューゴは緊張を強いられていたのだ。『人の目のあるところでは、絶対に< 炎の英雄>らしく振舞え』というシーザーが課した無理難題のおかげである。
 いくら真なる炎の紋章を継いだとはいえ、もともとはカラヤの外ですらつい最近まで知らなかった子供にすぎない。それは真実であり特段卑下するほどでもない、とヒューゴは思っているのだが、そのときのシーザーがあんまりな迫力で言い切るものだから、有効な反論もできずに押し切られてしまった。
 それに、シーザーの主張に一理あることも、わかっている。利害が一致したとはいえ、ビュッデヒュッケ城に集まった新生< 炎の運び手>は、言ってしまえば寄せ集めの軍勢に過ぎない。強大な敵に対して、味方は圧倒多数の勢力を誇るわけでもなく、あまつさえ結束さえも脆いという現状では、『強力な、信頼できるリーダー』というのは大きな力となりうる。真実はどうあれ、味方からそう見え、信頼されれば十分有効であり、ヒューゴに要求されたのも、そのための振る舞いなのだ。
 その点、カラヤの仲間に対してはそんな気遣いは無用だ。何しろ、もっと幼い頃どころか、自分が生まれたときからの付き合いばかりだ。今更肩肘張って格好つけたところで、「がんばってるなぁ」と微笑まれるのがオチだろう。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「うん、いいよ?」
「あのな、その……」
 自分から呼び止め、切り出しておきながら、男は曖昧に言いよどんだ。何やらよほど言い出しにくそうなその様子に、ヒューゴは小さく首をかしげる。
 正直、飾り物の英雄に過ぎない自分に質問されても、応えられる事柄などあまり無い。その自覚はヒューゴ自身あるし、カラヤの者も知っているはずだった。クリスやゲドたち歴戦の勇士に追いつけるよう、シーザーから仕事の合間を見繕って色々と教わっているが、それでもまだ『英雄見習い』の域を出ていない。
 実力的にはいささか頼りないヒューゴに比べ、ビュッデヒュッケ城には多彩な人が集いつつある。武術や魔術から始まって、戦術や戦略、料理や芸術……果ては恋愛や賭博など。どの分野においても教えを請える人が、いる。
 そこまで考えてから、はっと閃いたヒューゴは勢い良く顔を上げた。
「もしかして、お金借りたいとか!? 悪いけどオレも自由に使えるお金はあんまりないよ?」
「……いや、そうじゃなくてだな……」
 乱暴にがりがりと頭を掻いて、男はあたりを憚るように視線をめぐらせた。誰の姿も見当たらないのを確認してから、ずいと近寄ってくる。その妙な迫力に、一瞬後ずさりかけたヒューゴだったが、すぐにその動きは凍りついた。
「ヒューゴ、お前……最近よく一緒にいるみたいだけど、あの女に惚れてるなんてこと、ないよな?」
 『あの女』というのが誰をさすのか瞬時に察して、心臓と脳が同時に止まったような気がした。ひゅっ、と小さく喉が鳴る。返事することもできず、ヒューゴはただ呆然と男を見上げた。
 友を殺した相手に対する憎悪と。妥協せざるを得ない現状に対する潔癖な反発と。己に課せられた役割に、真摯に向き合うその姿への憧憬と……自分自身どうしようもない恋心と。
 分類不可能なまま斑に渦を描くそれらの感情を、ヒューゴはできるだけ直視しないようにしていた。けれど、男の言葉はその欺瞞の皮を強烈に暴いてみせたのだ。
「『仲間』だなんて言っても、今だけなんだよな? ハルモニアとの戦争が終われば、あいつらぶっ殺せるんだよな?」
 男の声は、決して大きくも強くも無い。けれどその囁きには、無臭の毒が纏わり付いているような気がした。病に冒されているような、不自然な熱情が男の双眸に宿っていて、知らずヒューゴの背が粟立つ。
 きっと、彼だけではなく多くのものが、思っているのかもしれない。ルシアを始めヒューゴの回り近くに居るものたちは、そんな素振りを一切見せなかったけれど、それだってヒューゴが気づいていないだけなのかもしれなかった。
「ヒューゴだって……分かるだろう?」
 肯定が返ってくることを信じて疑わないその問いかけに、ヒューゴは頷くことすらできず……その事に、ヒューゴ自身愕然とした。
 男の気持ちは、分からないでもない。目の前の男は確か、妹を騎士団の襲撃で喪ったはずだ。幸いにしてヒューゴの家族は無事だったが、あの戦で身内を亡くした者は決して少なくない。
 けれど、と思う。
 その想いは分かるのに、それでも……毎日顔をあわせ、共に食事や訓練をし、一人一人の『人間』として少しずつ打ち解けつつある者たちを、何時の日か殺すことを夢見るのは、ひどくおぞましい事のように、感じてしまうのだ。
 それとも、そんな風に感じる自分が、以前とは変わってしまったのだろうか。彼のように復讐を望むのが正しくて、純粋な憎しみだけではなくなってしまった自分がどこか間違えてしまっているのだろうか。
「……ッ!」
 肯定も否定も無いことに苛立ったのか、男はヒューゴの肩をがしっと掴んだ。びくりと身体が震えたが、男は構わず訴えかけてくる。
「なあヒューゴ、そうだって言ってくれよ。今仲良くしてみせてるのだって、鉄頭たちを油断させるためなんだろう? それでこの戦が終われば、お前がその紋章で今度はあいつらを焼き払――」
「ヒューゴ!」
 名を呼び近づく者の姿に、男の表情がさっと変わった。やがて、そろりと肩に置かれた手がはずされる。
 ぎこちなく見上げた先、男にはもう先ほどまでの熱は無いようだった。かわりに、白い無表情が一面覆っている。それはきっと、抑えても溢れ出る憎悪を、白く塗りつぶしているからだろう。
「……呼び止めて悪かったな。じゃあ、またな」
「……」
 言葉を忘れたかのように、ただ立ち尽くしたままのヒューゴを置いて、男は急ぎ足で立ち去った。それはまるでヒューゴのもとに早足で歩いてくるクリスの姿を、欠片も視界に入れまいとする男の意思の表れのようにも見える。そしておそらく、ヒューゴの受けた印象は真実からそんなに遠くは無いはずだ。村に火を放たれ、親しいものを奪われた憎しみは、そう簡単に消えるものではない。
 律動的な歩調で近づいてきたクリスが、ヒューゴの前で立ち止まる。血塗られているはずなのに、どこか清浄な気配を感じて、ヒューゴはようやくゆるゆると溜息をついた。
「すまない、話の邪魔をしてしまって」
「いや……どっちかというと、助かった、のかな……」
「……? まぁ、ヒューゴが不快なようではないから、いいか」
 小さく首をかしげるクリスに、ヒューゴは曖昧に笑って詳しい説明を避けた。
 クリスへの言葉は、嘘ではない。男の言動の端々から、瘴気じみた悪意が滲んでいて、ひどく息苦しかった。仲間であるはずの彼より、敵であるクリスの前のほうが安心するというのはおかしな話ではあるが、ヒューゴにとっては真実で……だからこそ、辛い。カラヤに居た頃はさっぱりとした気性だった彼を変えたのは、間違いなくあの夜の襲撃なのだろうし、それを指揮したのは目の前の女性なのだ。
「ヒューゴ? どうした、ぼんやりしているようだが……風邪でも引いたのか?」
「……どうだろう。ちょっと疲れてるだけかも」
「そうか、あまり無理はするなよ」
 族長を暗殺されたリザードクラン。休戦協定の場で奇襲され、多くの仲間を喪った騎士団。村を焼かれたカラヤクラン。祭の日に襲われたイクセの村。
 誰もが加害者でもあり、同時に被害者でもあって。くるくると、螺旋のように刻まれた憎悪の鎖は、今もまだ続いている。それは、ハルモニアという強敵を前にしたところで容易になくなりはしないだろうし、先ほどの男のように心の地下深くに埋め込まれただけなのかもしれない。
 だからこそ、まだヒューゴは先ほど投げつけられた言葉を、もう一度隠すしかない。自分のクリスに対する感情をはっきりさせたところで、何も、誰も報われはしないのだから。
 今は、まだ。
「ヒューゴ?」
 覗きこむようにまっすぐ向けられた視線から、逃れるように僅かに顔を背け、小さく曖昧に頷いた。いかにも隠し事をしています、というバレバレの所作にも関わらず、クリスは深刻な気配を察してくれたようで、すぐにさらりと視線がはずされる。
「そうそう、ところで、この前のシーザーの話だが。ヒューゴのほうでも案があれば出してもらえないか?」
「あ、うん。もうちょっと考えてみる」
 こういうとき、クリスには敵わないと強く思う。自分よりはるかに大人な彼女は、人との距離の取り方が上手い。余計な事を言ってしまったり、迂闊に踏み込みすぎてしまう自分とは大違いだ。
 彼女だったら、さっきの男のような問いをぶつけられたら、なんと応えるのだろう。たとえば、家族を亡くしたイクセの人に、仇を討つよう嘆願されたら。
 ありえない仮定ではない。イクセの人々にとっては、遠いハルモニアよりも、身近な人を殺したリザードクランとカラヤクランの者こそが、憎むべき存在のはずだ。さっきの男にとって、ゼクセン騎士団が何よりも厭うべき敵であるように。
 その悲憤をぶつけられたとき、クリスがなんと応えるのか、ヒューゴにはわからない。けれど、クリスなら、きちんと答える事ができるのではないか。凍った土が少しずつ柔らかくなり、やがて草花が芽吹くような……そんな変化を促せるのではないだろうか。
「……ヒューゴ。きちんと聞いているのか?」
「うん、大丈夫」
「どうも適当に返事しているように見えるんだが……本当に大丈夫なんだな?」
「うん」
『いつか、ぶっ殺せるんだよな?』
 切望に上ずった声が脳裏をよぎる。あの時自分は何一つ答えることができなかった。けれどいつか、とおもう。
 いつか、彼の憎悪がさらに凝ることなく、解けていけばいい。まだどんな言葉が適切なのかわからないけれど、今度ゆっくり会えることがあれば、もう少し話せるようにがんばろう……そう、思ったのだった。