[小話]最初で最後の祝い
2007/1/11 木曜日
ほぅ、と吐いた息が白く昇っていくのを、ヒューゴはぼんやりとしたまなざしで見ていた。からりと乾いた季節が長い草原ではあるが、かといって一年を通して気温の変動が無い、わけではない。冬になれば寒くなるし、夜にもなれば尚更である。
呼吸のたびにのぼる白い吐息は、すぐに拡散し、夜の闇に紛れてしまう。普段は別にそれが普通でなんとも思わないのに、今日はなんとなくそれが淋しい、と思った。いっそのこと、息が凍って結晶になるほど寒ければいいのに、とも思う。形にならずもやもやと消えていく吐息は、まるで自分の想いのようにもみえて……少し、切ない。
「よぅヒューゴ、こんな所に居たのか」
「軍曹……」
かけられた声音にゆっくり振り向くと、兄代わりとも保護者ともつかない、顔なじみのダッククランの勇士が居た。気さくながらも大人らしい余裕を湛えた双眸が、珍しく少し濁っているのは、おそらく吐息に酒精が混じっているのと無縁ではないだろう。そういうヒューゴ自身、なんとなく酔っている自覚はある。先ほどまで、大人たちにしたたかに酒を注がれ、飲まされていたのだから当然だ。
くるりと時が回って一年。その始まり。
カラヤではそのときを、酒と共に陽気に迎えるのがしきたりでもある。もっとも、それは酒を飲みたい大人たちにとってはただの理由にしか過ぎないのだろう。事実、もう宴会は3日目に突入しつつある。
「こんな所に長居してると、凍っちまうぞ?」
「うん。そのうち戻ろうとは思ってるんだけど……」
とはいえ、戻ればまたもや酒の洗礼を浴びることになる。年齢だけで言えば、ヒューゴはもう成人とみなされてもいい年であるし、酒豪であるルシアの血を引いていることもあり立派な酒飲みになっていてもおかしくないのだが……ヒューゴの身体は、真なる炎の紋章を継いだ15歳でとまったままである。どれほど素質があろうとも、15歳の身体ではそう大量の酒精を受け付けてはくれないのだ。わかっていながら酒を勧める意地の悪い大人たちを、あしらうにも限度というものがある。
苦笑とともにぼんやりごまかしたヒューゴに、ジョー軍曹はそうか、と短く応えた。なんとなく話が途切れて、ふたり並んでぼんやりと星空を見上げる。
ややあって、ヒューゴはぽつりと切り出した。
「あのね、軍曹」
「うん?」
「春になったら……ここを、出ようかと思うんだ」
カラヤクランを出る。
……その事自体は、前々から考えていたことではあった。少なくとも再来年……ではなく、来年の春には、クリスとふたり旅立つ予定だったのだし、その事は母にも告げてある。異形のものには優しくないゼクセンならさておき、精霊信仰の篤いカラヤでは真なる紋章を持つものも受け入れてくれるだろうけれども、クリスのことを考えるとカラヤにとどまり続けるのも心苦しかった。カラヤの人間がクリスを赦し、受け入れたとしても、きっとクリス自身はそれをよしとはしないだろう。それに、次の長として期待してくれる人たちには申し訳ないけれども、時から置き去りにされた者が長として立つのも、どこか不自然と思ったのだ。加えて、ハルモニアとのことを考えれば、自由な立場でいたほうがいい、という思惑もある。
そのときまで、あと1年と少し。生まれ育ち、愛するカラヤのためにできるだけのことを遺していこう、と思っていた。
(でも……淋しいんだ)
此処は愛する故郷で、大事な人たちが住んでいて……満ち足りて、幸せなはずなのに、淋しいと叫ぶ心が、ある。
「あのお嬢さんのところへ行くのか?」
「うん。そのつもり」
「そうかぁ……」
は、と同時に吐き出した息が白くけぶる。ふわふわと漂うそれらは、重なるように見えて、その前に消えてしまう。
「ルシアにはもう話したのか?」
「ううん、まだ。まだ誰にも言ってないんだ。軍曹が初めて」
「そりゃ光栄だな」
おどけたように言う軍曹に小さく笑って、ヒューゴはぼんやりと空を見上げた。星空があんまりにも綺麗で、綺麗過ぎて、だからこそ侘しい。隣に居て欲しい人が居ないというのは、それだけで少し寒くなってしまうのは、当然なのか酒のせいなのかは分からないけれども。
「……ていうかね、クリスさんにも言ってないんだよね」
「……おいおい、それは大丈夫か?」
「わかんない。でも、もう離れてるのはイヤなんだ。だから押しかけ女房になるつもり」
クリスが筆不精なのも知っているし、忙しいのも知っている。自分との約束を守ろうとしてがんばっており、そのために今はほとんど逢えないのも知っている。
仕方が無いと思いつつ、それでも淋しいものは淋しい。わがままと思われるかもしれないが、それがヒューゴの正直な気持ちだった。
ならばそれを、自分から埋めに行けばいい。
若いね、と呆れ混じりに呟いた軍曹にもう一度笑いかけ、ヒューゴは大きく伸びをした。夜気にさらされてたおかげで、だいぶ酒精が抜けてきたような気がする。
終わりまで、あとひと頑張り、といったところだろう。酒豪揃いのカラヤといえど、さすがに今日あたりで宴会は終わるに違いない。
「戻るのか?」
「うん。……最後の、カラヤの新年祝いだからね。最後までつきあってみる」
「そうか、がんばれよ」
ひらひらと手を振る軍曹に手を振り返して、くるんときびすを返す。宴会場となっている我が家に近づくにつれ、零れる明かりと同時に、絶えることの無く漂う酒の香りに、思わず苦笑が浮かぶ。
(母さんに、言っちゃおうかな)
怒るだろうか。祝福されるだろうか。いっそのこと、正体なくつぶれてから承諾取り付けてしまおうか。……いや、その前に自分が潰されてしまうのは間違いない。
とりあえず、今年一年が自分にとっても、カラヤの皆にとっても……そしてクリスにとっても良き一年であることを祈りながら、ヒューゴはそろりと宴会の場に戻ったのだった。