なんでこんなことになったんだ、と声もなく呟いて、クリスは目の前のテーブルを見やった。
それほど大きくないテーブルの上には、空になったグラスが所狭しと並べられている。それほど大きくはなく、手の中にすっぽりと納まる程度の大きさだが、その中には相当に強い酒が入っていた。仄かに金木犀の香りがする、その黄金色の酒は、基本的に水や果実で割って飲むものであり、そのままで飲まれることはあまり無い。クリスは原酒のとろりとした口当たりと濃い甘さが好きで、果実などで薄めずそのまま飲むことが多かったが、それにしてもこれほどの量を飲んだことは無かった。
なんでこんなことになったんだ、ともう一度ぼんやり思う。
最初は、いつものように酒場でヒューゴと酒を飲んでいたはずだ。
このところ、加速度的に忙しさは増していき、食事の時間も休憩の時間ですらも、どうしてもすれ違ってしまう。だが、夜更けならばまだ時間を調整しやすい……そんなわけで、最近は仕事を終えてから深夜、ビュッデヒュッケ城の酒場の片隅でふたり、酒を酌み交わすようになっていた。ほんの1、2杯飲むだけだから、時間にしてはそんなに無いけれども、今日の出来事や愚痴などを語り合う時間は、クリスにとって「一日仕事を終えたご褒美」のようで、楽しかった。
それは、今日も同じことで。
(どこで……こんな風に……?)
ややもすると睡魔に溶けていきそうな思考が、ぼんやりと脳内を巡る。原因というよりは元凶と呼べる目の前の男を力なく睨みつけ、クリスは小さく溜息をついた。視界の端で、ヒューゴが心配そうにこちらを見ている姿が映る。できることならとめたいだろうに、それをしないのは自分の意地っ張りで負けず嫌いな性格を知っているからだろう。それに甘えて、心配かけて我侭に振舞っている自覚はあるが、今更退くことなどできない。
(それもこれも、こいつのせいで……)
そう、クリスにとって天敵とまで言えるこの男が声をかけてきたせいで、全てが変わってしまった。売り言葉に買い言葉、自分だって短慮だった部分はあるけれども全面的にこいつが悪い、と思う。父の友人ということを思わせぶりに匂わし、近づくでも遠ざかるでもない距離を保つ彼は、非常に……なんというか、癇に障るのだ。
嫌い、ではない。もちろん好きではないけれども、嫌悪とか憎悪とかいった感情は無い。ただ、肝心なところはいつもはぐらかし、いつもいつも大人の余裕を見せ付けるような態度は、敵わないような、悔しいような……そんな気分になる。挑発に乗り、飲み比べなんてことになってしまったのも、それが遠因としてあるに違いない。
「ん? どうしたお嬢さん、もう降参か?」
「……いや……」
飄々とからかうような声音にゆっくりと応えて、クリスは手を伸ばした。夢の中の出来事のような緩慢さでグラスを取り、口をつける。相当に感覚が鈍っているのか、酒精はまったく感じず、ただただ甘みだけが口の中に残る。飲み干したグラスをテーブルに戻そうとするが、距離感がつかめない上に手が震える。グラスを取り落としかけた刹那、すかさずヒューゴがグラスを取り上げてくれた。
「大丈夫? 気分悪くない?」
「……ん……」
耳元で囁かれた言葉でさえも、どこか薄い紗を通したかのようにぼんやり滲む。大丈夫だ、心配するな、もっと多くの言葉を費やして安心させたいのに、うまく言葉が出てこない。酒豪だったという父譲りだろう、気分の悪さや頭痛などといったものは経験したことがないし、今も大丈夫だ。ただ、体内に溜め込んだ酒精がそのまま睡魔に変身したかのように、ひたすらに眠い。
「ちょっとジンバ! あんまりクリスさんに無理させないでよ!」
「すまんすまん……って俺が悪いのか?」
「だって、ジンバのせいでしょ」
「あー……まぁ、そうかな。じゃあ、お詫びに俺が部屋まで送ってやるから」
「……俺もついてく」
「そんな顔でにらむなよ、別に変なことはしないぞ?」
ぽんぽんとリズム良く交わされる会話が耳に入るが、その意味を掴むまでに次々に会話が流れていき、抗議の声を上げる間もない。さらさらと砂が波に浚われ、溶けていくように、ふたりの言葉が発する傍から意識の底へ消えていく。
眠い。とにかく、ひたすら、眠い。
「よいしょっと」
「変なとこ触ったら俺が怒るからね!?」
「あーはいはい」
ふつりと落ちる意識の端で、クリスは自分を掬い上げる大きな手に、触れたような気がした。
ゆうらり。ゆらり。
大きな歩幅でゆっくり歩くその振動は、どこか静かな湖に浮かべた小船のようだと思った。穏やかで、温かくて、静かで……そのまま水に溶けていってしまいたいような、そんな気分になる。
だとすると、ヒューゴとジンバの声は、遠から渡る風の声か、船べりに当たる漣か。さあさあと柔らかい雨だれのように、静かに染み入ってくる。
「……なんで俺が言わなくても、曲がるところ知ってんの?」
「そりゃ、お嬢さんは有名人だからなあ」
「もしかしてジンバ……」
「違うッ、断じてお前が思ってるようなことはないぞ」
「じゃあなんで?」
「……ま、いろいろあってな」
「ふうん……」
広く大きな背中に、すり、と頬を摺り寄せる。衣服越しに伝わってくるぬくもりは、子供のころとまったく同じものだ。違う人なのに、どうしてこうも懐かしいと感じるのだろう。そして、どうして自分は懐かしくて懐かしくて……泣きたくなって、しまうのだろう。
もう父の面影など記憶から随分と薄れ、ただぼんやりとした影しか残されていない。それは仕方のないことだと諦めていたはずなのに、ふとした拍子に理性の箍が外れてしまうと、届かない思い出を懸命に引き戻そうとする自分が現れる。
今はもう居ない人。突然喪われてしまった人。大好きで、憧れて、いつかその父を越える騎士になりたいと、想っていた。
(……ああ、そうか……)
ふと閃いた答えに、クリスは声もなく呟いた。
(だから、か……)
きっと自分は、どうしても敵わないこの男に、父の姿を無意識のうちに重ねていたのだ。だから、敵わないことが悔しくて、けれど乗り越えたくて、嫌いになれなくて……反発してしまっていたのだろう。まるで反抗期の娘のように。
「……なぁ、ヒューゴ。俺が言う筋じゃないが……大事にしてやれよ」
「ジンバ……?」
「本当はもっと大事に愛されて、幸せになるはずだったんだ。だからヒューゴ、お前がこれからは護ってやれよ」
「……なんか、全然話がわかんないんだけど。けど、言われなくたってそうするよ。決まってるでしょ」
とうさま、と小さく呟く。こみ上げる涙が頬を伝わりおち、ジンバのシャツの背中にしみを作る。
偽者でもいい。酒の酩酊がもたらした、ひと時の夢でもいい。それでもいいから、今だけはただこの温もりに縋りついていたかった。
(とうさま、大好き……)
うつらうつらと揺れる夢の中で、どうしてももう一度伝えたかった言葉を呟いて、クリスは静かに目を閉じる。
明日になればきっと忘れてしまって、また今までと同じように反発してしまうだろうけれど。
せめて、今このときだけは。