[小話]心の栄養。
2006/7/31 月曜日
「ふ」
ふふ、と零れ落ちた、蕩けるような笑みに、ヒューゴは小さく口の端を緩めた。その笑みが自分に向けられていないというのはいささか淋しい感じもするが、なんといっても好きな人が幸せそうな表情を浮かべていれば、それで満足とも思えてくる。特に彼女とは、ゼクセンとカラヤ、遠く離れている上に互いに多忙なこともあり、たまに手紙を交わすだけで実際に顔を合わすことなどあまり無いのだ。めったに無い……けれど何度か見たことがある、クリスの『幸せな笑顔』というものは、ヒューゴの記憶に強く焼き付けられており、何時だって脳裏に描くことはできるけれど、やはり本物には敵わないと思う。
クリスのうっとりとした眼差しの先には、瀟洒な蔦模様で縁取られた皿があった。その上には、甘い芳香を仄かに放つケーキが乗っている。真冬の雪のように、繊細なレースのように、ケーキを装う生クリームはどこまでも真白く。ケーキの上に飾られたすぐりや木苺などの果実は、蜜でも塗っているのだろう、果実というよりは宝石とさえ呼べるような、艶やかな輝きを放っている。見た目だけでも十分、何か宝石細工のような美しさだが、当然味のほうも見た目に引けをとらない魅力を持っているに違いなかった。
「ん~……」
小ぶりの銀のフォークを握り締めて、どこから切り込むべきか迷っていた風だったクリスは、やがて意を決したらしく、そっとフォークをおろした。つぶり、と銀の切っ先が沈みこみ、ふるふると柔らかくケーキが震える。
(………………なんていうか)
3切れ目のサンドウィッチに手を伸ばしつつ、クリスの口許から視線を引き剥がす。
(目の毒なんだよなー…)
久々にあったせいだろうか、クリスの仕草がいちいち艶めかしくみえて仕方が無い。慎重にケーキを口許に運ぶところも、幸せをかみ締めるようにゆっくりと味わうところも、うっとりと目を細めて嚥下するところも。小さく動く白い喉元とか、つやぷるで柔らかそうな唇とか、油断すると視線が固定されてしまいそうになる。
(けど、まぁ)
「美味しい?」
「もちろん。ヒューゴは注文しなくて良かったのか?」
「今の俺には、ケーキよりも腹が膨れるサンドウィッチのほうが幸せだから」
「そういうものか?」
ビュッデヒュッケ城に居た頃も、ほとんど隙らしい隙を見せなかったクリスだが、それだけに神経を張り詰めていることも多いに違いない。多くの仲間たちの助けがあるとはいっても、だからといって何もかも肩代わりしてもらえるわけでもなく、気の休まる瞬間というものはそうそうあるようには見えなかった。
そのクリスが、少女のようにあどけなく、無防備な笑顔で居られるのなら。その場に居ることを許されるのなら。お茶とケーキだけではなく、自分の存在も癒しの一助になっていると…自惚れてもいいのだろうか?
(多分、お互い様って言うんだろうなぁ)
人は、水と空気と食べ物だけで生きているわけではない。それらと同じくらいに、自分にとってのクリスのような「心の栄養」は、欠かすことのできない存在だ。
傍に居てくれるだけで、声を聞き、微笑を目にするだけで満たされる。けれど、自分は欲深な人間だから。
「この後の予定って何か決めてる?」
「いや、特には……ヒューゴは?」
「ヒミツ」
あとで不意打ちでキスしてみよう、と密かにたくらみ、ヒューゴは小さく笑った。