[小話]らぶ・あくしょん!

2010/4/14 水曜日

 鏡の中にはひとり、見慣れない顔で見返す女がいた。長くまっすぐで癖の無い銀髪は今はおろされ、さらりと肩を流れ落ちる。うっすらと施した化粧は、すっきりとした目鼻立ちに仄かな色香を添えていた。我ながら悪くは無いと思う。
 思うのだが。
「……ううぅ」
 どうにもこうにも気恥ずかしくて、クリスは低く唸り声を上げた。鏡に映る自分の姿をこれ以上直視できず、すいと視線をはずす。
 今クリスが身に纏っているのは、常の銀の鎧でなければ橙の騎士衣でもない。もちろん若草色の旅装でもない。クリスを肢体を包んでいるのは、ゼクセンでこの夏流行した、ありふれた……それだけにこれまでクリスが着ることの無かった、ごく普通のワンピースだった。薄い蒼のワンピースに合わせて、肩にかけた淡い桜色のショールは文句なしにクリスの端正な容姿を引き立てているのだが、肝心のクリス自身はこうしたものを着慣れておらず、面映いような、むずがゆいような気持ちを抑えられないでいた。
 まるでいそいそと逢引に出かけるお嬢さんたちのようだ、と思って、クリスは深々とため息をついた。それはまさしく、今の自分のことではないか。
「早まっただろうか……」
 僅かに後悔を滲ませて、クリスはがっくりと項垂れた。パーシヴァルの冗談を真に受けてしまった己の浅はかさが悔やまれる。
 五行の紋章戦争後、ゼクセン騎士団は少しずつその在り様を変えつつある。今でも騎士団は国防と国内の治安維持、その両方を担っていたのだが、最近は前者の比重が軽くなってきている。もちろんいざというときに備え、時折大規模な演習も行われることがあるが、ビネ・デル・ゼクセをはじめとする街の巡回警備や、夜盗退治のほうに力を入れている。
 グラスランドとの戦は正式には終わったわけではないが、小競り合いさえ起きていない現状としては、実質終了したものとみていいだろう。そのような時期に、下手に軍備増強を図ってると疑われるような真似は避けたほうがいい、というのが誉れ高き六騎士全員が一致した意見だった。また並行して、評議会に対してグラスランドとの停戦条約を結ぶよう働きかけている最中でもある。好戦派とも呼べる一派のほとんどが、ハルモニアとの内通によって力を失ったこともあり、現在条約の文言を細かく推敲する段階にまで来ている。
 そんなこんなで、最近のクリスはビネ・デル・ゼクセ勤めが増えてきていた。評議会との会議には、やはり正式に団長に就任したクリスが出席するのが妥当、ということもある。そのため、今日も今日とてパーシヴァルを供に、ビネ・デル・ゼクセに戻ってきたのだ。
『クリス様も、たまにはお洒落をしてヒューゴどのを驚かせてみてはいかがですか?』
 その話が出たのは昼食時、ビネ・デル・ゼクセで流通しているものについての話だったか。
 戦の気配が急速に遠のいたせいか、このところビネ・デル・ゼクセを訪れる商人は増え続けている。流れ込んでくるものが、食料や武器・防具のみならず、色とりどりの衣服や装飾品など必需品ではないものまで多岐に渡っているのは、取りも直さず平和の証だろう。そして、真っ先にそれら嗜好品に飛びつくのはたいてい若い女性たちで、思い思いの工夫をこらして恋人と語らう女性たちの姿を、このところよく見かけるようになっていた。
 クリスにとって必要なのは、そうした事象から読み取れる状況だけだ。わが身に置き換えて考えるような出来事ではない。
 だが。
『……そうだな』
 茶化すような、からかうようなパーシヴァルの言葉に笑みとともに曖昧に答え、それで終わったはずの話を、クリスは珍しくその後も気に留めていた。
 クリスとヒューゴは恋人同士とはいえ、そうそう気軽に会うことはできない。互いに忙しい日々を送っていることもあるが、二人の間に横たわる距離も大きく、ただのヒューゴとクリスとして二人きりで会える時間というのは貴重だった。恋人としてゆっくり会えたときはそれだけで幸福で……クリスの中から、お洒落をするとか凝ったシチュエーションを考えてみるとか、そういった事まで気を回す余裕はなく、今まですっぽ抜けていたのだ。
 だから、だろうか。
 パーシヴァルとの会話をなんとなく気に留めていたクリスは、仕事のあとなぜか服屋に寄り、店員に薦められるままワンピースとショールを購入し、帰宅後着替え――現在我に返り途方に暮れている、という状況だった。
「……しまった」
 階下の居間においてある時計がぽおんと小さく鳴るのが聞こえ、クリスは小さく舌打ちした。今日はヒューゴがビュッデヒュッケ城に出向いているため、互いの仕事終わりに合わせてビネ・デル・ゼクセで会おうと約束していたのだが……その刻限までもう幾らもない。今からまた着替えて向かうとなると、ヒューゴを待たせてしまうことは確実だった。諦めてこのまま行くしかないだろう。
 いつものように愛用の剣を持っていこうと、机の上に置いた剣に手を伸ばしたクリスだったが、暫く躊躇ったあとその手を引っ込めた。
「……どうせだからな……」
 小さな苦笑とともに、代わりに護身用の小さな短剣を手に取る。どうせ普段と異なる格好をしているのなら、とことんまで『普通のお嬢さん』のように振舞ってみるのも一興だろう。普段と違う自分に、ヒューゴは驚くか笑うのか、クリスには予想はつかないけれども、その反応を見るのもまた面白そうだった。
「行ってきます」
 そうしてクリスは、ワンピースの裾をひらりと舞わせながら、灯りが照らし出す街並みに飛び出したのだった。

[小話]余計なお世話

2009/2/19 木曜日

 ぎしり、と床板を踏む音に、ザックは弾かれたように振り向いた。
「……どうしたの、ザック?」
「え、いや……まぁ、な」
 気心の知れた仲間の姿がそこにあったにも関わらず、ザックの表情はますます強張った。動揺のあまり、ザックの返答は胡散臭い事この上ないものになったが、ロディのほうはいつも以上にぼんやりしているらしく、いぶかしむ様子さえ見せなかった。よほど眠いのか、あるいは昨晩の慣れない酒がまだ残っているのか。どちらにせよ助かったことに変わりはない。何とか平静を取り戻し、さらりと話題を変える。
「そういうお前こそ、どうしたんだ? 起きるにゃまだ早い時間だろうが」
「そうなんだけどね……」
 ザックの問いに、ロディはへらりと笑みを浮かべて見せた。元来温和で覇気があるとは言い難い少年ではあるが、今朝は尚のこと緩んでいるようにも見えた。
「何か、腹の中がムズムズしてね。一度起きちゃうと寝れそうになくなっちゃってさ」
 一瞬、勘付かれたか、とひやりとした感触が心の表面を撫でる。だがすぐに、いや、と心中で訂正を加えた。おそらくロディは、昨夜の宴会で体調が落ちていることを言っただけだろう。普段飲み慣れていない人間が、時折場の雰囲気に呑まれ酒を多めに飲んでしまうと、腹具合がおかしくなるなんてのはままることだ。逐一過度に反応すれば、かえって怪しまれかねない。
「ザックはどうしたの? さっきまで飲んでたとか?」
「まあな」
 これ自体は嘘ではない。だが。
「……もしかして、セシリアも一緒に?」
「んなわきゃないだろーが。あの姫さんだぞ、俺と一緒に夜通し飲むとかってありえんだろ」
「そうだよねぇ」
 実はその『あり得ない事態』が起こっていたのだが、ロディはほわんとした表情であっさりザックの言葉を首肯した。
「どうせこんな時間だし、寝る前にちょっと散歩しようかと思ってな」
 ほっとした反動か、聞かれてもいないのに宿兼酒場の扉前に居る理由を思わずでっちあげてしまって、ザックは内心頭を抱えた。早朝散歩だなんて今まで一度だってやったことが無いことを考えれば、いかにも怪しすぎる。だが、物凄く幸いなことにロディのほうはそこまで考えが及ばないようだった。
「あー、いいんじゃないかな。多分良く寝れるようになるよ、きっと」
 お人よしなロディの素直な受け答えにほっとしつつ、同時にどっと疲れを覚える。さすがに夜通しだらだら飲んで、仲間に心にも無い嘘をつかねばならない状況は、思ったよりも自分自身につらいらしい。普段のロディやセシリアが居たら、容赦なく突付かれボロを出すに違いない迂闊さを露呈しまくっている。
 本当は、ちょうどここでセシリアを見送ったのだ。アーデルハイドの女王となるため旅立つセシリアと、最後の別れの言葉を交わしたのは、つい先ほどのことだ。再びの邂逅を約束し扉を閉め、ため息をついてさあ戻ろうかと思った瞬間にロディの足音がしたときは、本当にどうしようかと思ったが……ザックにとっては運がいいのか悪いのか、どうも単純な偶然の産物のようだった。
「なんか、俺たちがこんな朝顔合わすのって珍しいな。ザックはいつも寝坊するし。普段一番早起きなのはセシリアだけど」
「……そうだな」
 興味の無い風を装い、ザックはことさらそっけなく応えた。
 セシリアがもうこの宿には居ないことを、ロディは知らない。ロディだけが、知らされていない。
 それを薄情と評することは、ザックにはできない。セシリアの葛藤は痛いほど伝わっていたし、仕方の無いことだと理解もできることだった。別れを告げなかったのではない、大事で大切で……だからこそ、告げることさえできなかったのだ。
 セシリアのその気持ちを思えば、急げばまだ追いつける今、ロディに不審を抱かれるような挙動は慎むべきだ。ましてや自分からセシリアの不在を教えるなど、彼女の葛藤も決断もまるっと無視した、余計なお世話だ。
 だが。――それでも。
「流石にセシリアはまだ、寝てるよね」
「……」
 迷ってしまうのは、ザックだけが気付き、セシリアも……ロディ自身でさえも気付いていないからだ。もうここを去ってしまった彼女の話になると、ロディの声が甘く響くことを。愛しそうに……まるで大切な宝物をそっと掬い上げるかのように、優しい声音で彼女の名を紡いでいることを。
 だから。
「気になるなら、姫さんの部屋にでも行ってみたらどうだ?」
「え、い、いや、そんな……」
「姫さんのことがどうでもいいってなら、俺も無理にとは言わんけどな」
「や、どうでもいいってわけでもなく」
 それなりに年頃の少年らしく、咄嗟に寝乱れたセシリアの姿でも想像したのだろう、即座に顔を真っ赤にしたロディがばたばたと手を振った。外見相応の素直な……それだけに不審な反応に小さく苦笑して、ザックは念押しをひとつしてみる。
「なんだったら、早朝デートにでも誘ってみちゃどうだ? 姫さんも喜んでくれるかもしらんぞ」
「で、ででデートって……」
「まぁ、今日は一応予定ないしな。俺はこれから一眠りするから、お前らはお前らでやってくれ。じゃあな」
「あ、うん、わかった」
 素直に頷いたロディに背を向け、ひらりと手を振ってみせる。
 これはきっと『いらぬお節介』に含まれる言動だろう。セシリアの予測では、今日は予定が無いため、昼……運がよければ夕食の時間まで、不在に気づかれないとの思惑だったはずだ。だがザックのけしかけによって、ロディは遠からず行動を起こすだろう。朝食に誘う計画でも立てているかもしれない。そして、外からどれほど呼びかけたとしても返事が無い不自然さに、気づくかもしれない。
 必ずそうなるという保証は無い。ましてや、セシリアが居ないことを知ったあと、ロディがどのように行動するかはもっと分からない。
 ただ、自分は彼らの未来が少しでも幸せなものになるよう、祈るだけだ。賽はもう投げられたのだから。
「おやすみ、ザック」
「あいよ、おやすみ」
 異変に気づいたロディによって、すぐさまたたき起こされることを願いながら、ザックは宿の二階へと姿を消したのだった。

[小話]束の間の逢瀬

2008/9/12 金曜日

 りりり、りりり、と虫の音が鳴る。鈴を振るかのようなその音は草原をひそやかに渡ってゆく。まったくの静寂は緊張をもたらすが、ほどよい大きさの雑音は緊張を解きほぐしてくれる。クリスと二人、草原で寝転んで空を見上げながら、ヒューゴはぼんやりとしていた。
 本当ならもっと話をしたいことがたくさんあった。徐々に復興を遂げつつあるカラヤの様子だとか。村の端にある墓地には、ジンバの遺品が眠っているのだとか。そうして、ルースがいつも丁寧に掃き清めているのだとか。
 ……そして、ルースがヒューゴに、「クリスにとっても父親なのだから、遠慮せずに来てほしいと伝えてくれないか」と何度も言っていたとか。
「……」
 けれどどの言葉もふさわしくないような気がして、ヒューゴはただただぼんやりと夜空を見上げる。手を伸ばせばすぐに届く距離で、クリスも同じように寝転んでいる。
 群青の帳に、今にも降ってきそうなほどたくさんの星が瞬いている。ヒューゴにとっては見慣れた夜空だが、商業の街として夜でも明かりが灯っているゼクセンで過ごしてきたクリスにとっては、驚きだろう。息を呑んで見入っているのが気配ではっきりと分かる。
 だから。
「……」
 何もせず、ただ同じ星空を眺めるだけ……それだけの、同じ時間と空間とを共有できる喜びを胸に、ヒューゴは幸せなため息をついたのだった。

[小話]許されるならば

2008/5/1 木曜日

 かつかつと階段を下りる足音に気付いたらしく、カウンターに座っていたザックがくるりと振り向いた。その手には相変わらず麦酒を満たした大きなジョッキが握られていて、セシリアは素直に凄い、と内心感嘆した。酒全般が苦手というほどではないが、セシリアが飲めるのは薄い果実酒ぐらいだ。ザックが好んで飲む麦酒や蒸留酒などは苦いやらきついやらで、正直なところ何がそんなに美味しいのか、理解ができない。何杯も飲むからにはきっと、ザックにとっては美味しいのだろうけれど。
 それとも、もっと大人になればわかるのだろうか。ザックぐらいの年齢になれば。
「……どうした姫さん」
「ふふふ、内緒です」
 ザックがいぶかしげに声をかけてきたが、セシリアは曖昧な含み笑いで返答を避けた。「ザックのように腰に手を当てて、麦酒を一息に飲み干す自分を想像してしまいました」と正直に言おうものなら、大笑いされるかもしれない。それだけならまだしも、今ここで実現してみるかなどと言われるといささか困ったことになる。ザックの挑発に乗って苦い麦酒を飲むはめになるのも、断ってなんとなく気まずい雰囲気になってしまうのも嫌だった。
 ……最後の、夜なのだ。
 それにしても、とザックが麦酒を煽りながら、悪びれない笑顔を向けた。
「すまんな姫さん。面倒なこと頼んじまって」
「別に面倒事ではありませんけど。……これからは、あんまりロディにお酒飲まさないで下さいね」
「わーかってるって。大丈夫俺様に任せとけ」
 できるだけ厳しめの口調で釘をさしたものの、返されたザックの言葉は限りなく軽い。だから心配なんだ、という言葉を飲み込み、かわりにしみじみため息をついた。ちらりとハンペンのほうを見ると、どうやら同じ感想を抱いたらしい青いカゼネズミがえっへん、と小さな胸をそらした。
「ザックの『大丈夫』はイマイチ信用できないからね。オイラがきちんと無茶しないように見張っておくから、安心してよ」
「よろしくお願いしますね」
 一人と一匹で話が成立した途端、ザックがぶつくさと文句を零すが、ハンペンとセシリアはそれを完全に黙殺した。亜精霊より信用が無い人間というのもおかしな話だが、こういう場合は日頃の行いがものを言うものだから仕方が無い。
「オヤジ、今度は蒸留酒くれ」
「あ、じゃあわたしはホットミルクお願いします」
「あいよ」
 ふてくされたザックが追加注文するのに便乗してセシリアも声をかけると、カウンターの向こうから落ち着いた渋い声が返ってきた。品物を待つ間ふと訪れた沈黙に、セシリアは小さくため息をついた。滲みそうになる涙を振り払うように、できるだけ不自然にならない明るい声を上げる。
「また。いつでもいいから、アーデルハイドに来て下さいね。ザックとロディならもう顔見知りですから、城の兵士達もすぐに通してくれるでしょうし」
「それはいいけどさ……」
 セシリアの空回りを抑えるように、ザックが静かな眼差しを向けてきた。声音にも表情にもセシリアを責める色は微塵も無い。むしろ純粋に心配してくれているのが分かるだけに、つきりと胸が痛んだ。その話題に触れたくなくて、できるだけ違う……それも明るい話題を持ち出したのだが、どうやらこの青年にはお見通しだったらしい。
「なぁ姫さん。ロディには言ったのか?」
「……いえ」
 明日早朝、セシリアはひとりでここを発つ予定だった。――アーデルハイドの女王となるために。
 今夜の宴会は、その送別会代わりだったのだ。ハンペンもザックも、それを知っていた。今日という日の意味を知らなかったのは、ロディだけだ。
「部屋には、急用ができてアーデルハイドに戻らなければならないことを手紙に書いて、残しましたから。しばらくはそれでごまかせると思います」
「姫さんは、それでいいのか?」
「はい」
 最初の旅と異なり、今の旅は特にこれという明確な目的があってのものではない。もっとも、ロディもザックは三人と一匹で世界を回るその前から渡り鳥だったわけで、ある種元に戻ったようなもので、もともと目的などあるような無いような状態だった。セシリアにとっては、表向きは見聞を広めるためではあるが、強いていうなら再びザックとロディとハンペンとで旅をすること自体が目的といえるかもしれない。
 できることならば、ずっとこんな日々が続けばいいと願っていた。けれど同時に、何時かこのときが来ることを覚悟していた。
 セシリアには、アーデルハイドの公女として課せられた責務がある。それを重たく感じたこともあったが、今はそうは思わなくなっていた。セシリアがアーデルハイドを、ファルガイアを愛する気持ちは自体は間違いなく最初からあるもので、「公女だから」「守護獣の巫女だから」という理由からよるものではないと、セシリア自身気付いたからだ。公女でなくても、守護獣の巫女でなくても、きっとできることをできる範囲でやっていたはずで……それは、公女であっても同じなのだと、今のセシリアなら自信を持っていえる。
 それでも。
「待たせたな、ホットミルクと蒸留酒だ」
「……ありがとうございます」
 酒場の主人から受け取ったミルクと一口飲むと、柔らかい甘みと温かさとが口の中に広がった。主人の厚意で蜂蜜が入っているようで、かすかな香りが鼻をくすぐる。優しさと甘さと温かさが混然となってセシリアを揺さぶった。
「……姫さん?」
「大丈夫……大丈夫です。ただ、少しだけ……今は、見ないふりをして下さい」
 カップを両手で抱え込み、セシリアは深く俯いた。その滑らかな白磁の頬を、真珠の雫が伝わり落ちる。セシリアの望みどおり言葉はかけず、ただ見守ってくれるザックの優しさに甘えて、セシリアは静かに涙をこぼした。
 己の決断に後悔は無い。誰に強制されたのではない、自分自身が選び決めた道だ。ヨハン含め国民からの望みであったにしろ、アーデルハイドとファルガイアのためにできることをできるだけやりたい自分の気持ちの為に、選んだのはセシリア自身だ。
 ……許されるならば、ずっと夢を見ていたかった。気の置けない仲間と……誰よりも大事な人と、世界を回って助け合って、時には軽口を叩きあって。ジェーンと女の子だけの秘密のお話をしたり、マリエルとゆっくりハーブのお茶を楽しんだり……本当に、夢のように楽しい日々だった。
 けれど、夢はいつか、覚める。終わらない夢など、ありやしないのだ。
 だから。
「ザック……今夜は最後まで、しっかり付き合って下さいね」
「いや、俺はいいけど……姫さんは朝早いんじゃなかったか?」
「早いけどいいんです。仲間と過ごす最後の夜なんですから誰にも文句は言わせません」
「……セシリア、なんか酔っ払いみたいなこと言ってるよ」
「えー、姫さんホットミルクで酔ったのかよ? ずいぶんとまぁ器用なことで」
「私は酔ってません! それより大体ザックのほうがよっぽど……」

 見たかった夢の最後の一滴まできちんと覚えて記憶の宝箱にしまいこんでおきたいと想った。

[小話]優しい嘘

2008/3/28 金曜日

 ふわふわとした世界が、気だるく肢体を包む。飲みなれない酒は思ったよりも効いているようで、ぼんやりしたままロディはセシリアを見上げた。ベッドに寝転んでいる自分を覗き込むセシリアは、後ろから明かりを受けて柔らかい光を放っている。綺麗だな、と素直に思った。
「大丈夫ですか、ロディ?」
「うん」
 微熱のような温い世界で、セシリアの声と姿だけがくっきりと届けられる。自分の声さえぐんにゃりしているのに、セシリアの声はどこか清水のようにさらり伝わってくるのが不思議だった。
「本当の本当に、大丈夫ですか? あ、お水飲みます?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「……ならいいんですけど……」
 よほど気にかかるのか、セシリアが小さくため息をついた。セシリアが心配してくれるのが嬉しくて、ロディはふにゃりと笑う。
 ザックに強かに飲まされたロディと違い、ほとんど飲んでいないセシリアの顔色は、ごくごく普通だ。それでも頬が淡い桜に染まっているのは、先ほどまで続いていた宴の余韻だろう。酒ではなく、高揚した空気に酔っているに違いない。
「今日は、楽しかったねぇ」
「そうですね」
 今夜の食事は、まさに宴会、といった感じだった。魔族を倒した影響か、それとも別の要因があったのか、守護獣の力が強まりつつあるらしく、ファルガイアには次第に雨と緑が増えつつある。とはいえ、野菜や果物といった農作物は、まだまだ高価なものが多い。今夜の食事には、そうした高価な野菜をふんだんに使った料理や、珍しい魚の料理などがたくさん並んだのだ。珍しいだけでなく美味である料理の数々に、ロディやザック、それにもちろんセシリアも、存分に舌鼓を打ったのだった。
「それに、セシリアの唄、すごく綺麗だったし」
「ふふ、ありがとうございます。……なんだか、改まって褒められると照れちゃいますね」
「そう? でも、本当に綺麗だったし。ザックはまぁ……アレだけど」
 余興とでも言うのか。セシリアが披露してくれたのはアーデルハイドに古くから伝わるらしい歌だったが、高く澄んだ声で紡がれる旋律は、天上よりの調べと言えるほどだった。酒場に居たほかの客達も大絶賛で、拍手の嵐だった上に、「もう一曲」の掛け声まで飛んでいたから、決してロディの贔屓目だけではないだろう。
 ちなみにその後調子に乗ったザックが歌ったときは、魔物の精神攻撃を思わせる歌声に、酒場中がブーイングに包まれた。ザックは「俺様の美声が輪からんとは芸術を解さん奴め」などと言っていたが……ハンペンに「その言い草はゼットそっくりだね」などと止めを刺されていた。
 ただひとつ、気になることがあるとすれば。
「セシリア……あのさ、今日は何かの記念だったの?」
「ふふ、内緒です」
 本日何度目かの質問をそれまでと同じようにかわされ、ロディは小さく唇を尖らせた。今日の食事会を手配したセシリアは、どうやら最後までその理由を教えてくれないつもりらしい。
 セシリアもザックも、ロディも今日が誕生日というわけではない。ついでに言うと、三人が初めて出会った日でもない。ましてや魔族を倒した日でも無いし……そもそも、その日なら毎年ジェーンやエマ、ゼットという、今は離れている仲間達と毎年の再会を約束した日でもあるから、こうして三人(+1)だけで騒ぐということは無いはずだ。
 ロディがセシリアやザックと共に旅をするようになってから、軽く一年は経っている。その間に、それぞれの誕生日をはじめ大抵の「記念日」は経験してきた。その記憶に照らして考えてみても、今日は何か特別な日だという記憶は無い。とはいえ、渡り鳥としての生活が長く、ややもすると日付の感覚さえぼんやりしがちなロディとザックに比べ、セシリアは彼女らしい繊細さで、折々の節目を大事にしてきた。だから今回も、ロディには気付かない、彼女にとって大事な何かの日なのかもしれない。
 ……ここまで頑なに教えてくれないのは不思議だけれども。
「ロディ、そろそろ眠いのではないですか?」
「う、ん……」
 柔らかいセシリアの問いかけに、否定したかったがしきれず、ロディは曖昧に頷いた。
 実のところ、物凄く眠い。じわじわと体を締め付ける睡魔はなかなかに強力で、体の奥底が痺れているような気持ちさえする。本当に楽しかったからまだまだ居たかったのに、1階の酒場から2階に取った部屋へ移らざるをえなかったのも、この眠気のせいだ。ロディよりもっとずっとたくさん酒を飲んでいるザックは全く平気なようで、今も一人酒場で飲んでいることを思うと、いささか情け無いような気もする。それとも、何度か飲むうちに慣れてくるのだろうか。
「無理はしなくてもいいんですから。ゆっくり休んでくださいね」
「ん……」
 明かりはつけっぱなしだし、カギも開け放しだが……まぁ、いい。きっとセシリアがカギをかけて、同室のザックに届けてくれる。今はもうとにかく、眠くて眠くて仕方が無かった。
 だから。
「また明日ね、セシリア……」
「……はい。……おやすみなさい、ロディ」
 僅かに震えた声音にも、深い感情を映した微笑にも、零れ落ちた一滴の涙にも気付かずに。
 ロディは引き込まれるように眠りに落ちたのだった。

[小話]黙祷

2008/1/18 金曜日

 太陽宮の高みから、時間を告げる澄んだ鐘の音が微かに降ってくる。直線的にはさほど距離はなくても、間を埋める建造物が鐘の響きを減衰させているのだろう。むしろ、あれほど分厚い建物を通して尚響くことに、シェンルフィーダは軽く驚いた。なにしろ太陽宮は広い。裏手にあるこの場所まで届くとは、思っていなかったのだ。
「……兄上には、わらわの感傷に付き合わせてすまなんだな」
「リムが謝る必要なんて、無いんだよ」
「……そうか……」
 頼りなく揺れる呟きにすかさず言葉を返したものの、リムスレーアが納得していないことは声色からすぐに知れる。分かるだけに……シェンルフィーダとしては、つらいものがある。
 内乱までのリムスレーアなら、素直にシェンルフィーダの慰めに騙されてくれていた。静かに微笑んで、あるいは向日葵のような笑顔で、「ありがとうなのじゃ、兄上」と受け止めてくれていた。安易な言葉に流されることを許さず、けれど突き放す厳しさも持てず、唇を固く結んで己を責める表情なんて、本当ならまだ知る必要さえなかったはずなのだ。
「……これは、リムだけの問題じゃない。僕とリムとが、等しく負うべきものなんだよ。……だって、兄妹だろう?」
「そうじゃな……」
 言葉だけでは足りなくて、妹とつないだ手のひらに少しだけ力を込めると、ようやくリムスレーアは小さく笑った。まだ痛みが残った表情だが、それでも笑ってくれたことにほっとする。
 ソルファレナ奪還を果たしてから、今日でちょうど一年という時間が経った。マルスカールを追い詰め太陽の紋章を取り戻し、全てに片をつけたのはもう少し後のことではあるが、それは事情を知る一部にとってであり、国内的には内乱が終結したのは一年前の今日という日になっている。その記念日を華々しく祝そうという案がつい最近出されたのだが、リムスレーアはそれを却下した。
『ゴドウィン指揮下で戦に赴いた者達も、守らねばならぬ民であったことに代わりは無い。ゆえにその日は、敵味方の区別無く、内乱により失われた全ての者達に哀悼の意を捧げるべきだと……わらわはそう、思うておるのじゃ』
 ……そうして、シェンルフィーダたちはここに居る。追悼式だ何だと慌しい一日が終わろうとしている時間ではあるけども、一応「今日」という日のうちに来ることができた。
 もうとっくに日が落ちている時間なのに、巧みに計算され配置された明かりのお陰で薄暗さは無く、全体がぼんやりと薄明るい。人が通るような場所ではないのだが、庭師が丁寧に世話をしてくれているらしく、広い空間のあちこちで美しく花々が咲き誇っている。いろんな種類のものが植えられているのは、そこに眠る人々の好みを反映してのことなのだろう。所々視界に入る墓石が無ければ、ただの庭園にしか見えないここは……女王家縁のものが永遠の眠りにつく墓地なのだ。
 生まれる前に祖父が、物心着く前に祖母が亡くなったため、シェンルフィーダは一度しかこの墓地を訪れたことが無い。ここに眠る人たちは血縁ではあるけども、記憶に無い人たちであるせいか、そんな感慨はひどく薄いものだった。正直なところ、どこに誰が眠っているのかさっぱり分からない有様だ。母と祖母の間には言葉では現せない確執があったようで、なんとなく来難かったこともある。
 だが、リムスレーアにとっては通いなれた場所のようだった。迷いの無い足取りでゆっくりとシェンルフィーダを導いていく。やがて手をつないだまま二人並んで、まだ新しい墓石の前で足を止めた。清らかな白百合に囲まれた墓石には、そこに眠る者たちの名が刻まれている。
 すなわち。
「父上、母上……お久しぶりです」
 衣服が土で汚れるのも構わず、シェンルフィーダは膝をついた。真白い大理石に刻まれた両親の名はまだ彫り跡も新しく、胸の奥がつんと刺激される。父と母とを喪い、妹と引き離され、住み慣れた太陽宮から逃げるように脱出し……全てを取り戻すことを誓った日は、そう遠い過去のものではない。
 自分でさえ、そうなのだ。リムスレーアにとっては、尚のことつらい記憶に違いない。ましてや、リムスレーア自身は何も語らないし、主に従って太陽宮に残された人々は決して口を割ろうとはしないが、前女王と騎士長である両親の葬儀にも、唯独り残る王族として立ち会っていたはずだ。誇り高く、己に課せられた責務から決して眼を逸らさない妹だから、アルシュタートの遺体と、亡骸さえ残さず消えたフェリドの遺品とが埋葬されるその様子を、この場で見ていたに違いない。
 俯けば涙が零れ落ちるから、昂然と顔を上げて。仇と信じ夫と呼ばねばならない立場の男を隣において。
 僅かに十歳を超えたばかりの華奢な妹が、今まで見てきたものの惨さを思うと、シェンルフィーダはひどく居た堪れなくなる。過去はどうしようもないと知りつつ、それでも当時の自分に今と同じだけの力があったなら、という想いが拭いきれない。
 リムスレーアに気付かれないよう、密やかにため息をついて、シェンルフィーダは視線を横に滑らせた。両親の墓碑に隠れるようにして、誰の名も刻んでいない小さな石が置いてある。
「……ありがとう、リム」
「兄上に礼を言われるようなことは、何もしておらぬ」
 答える声音が僅かに固いのは、何について礼を言ったのが察したからだろう。裏切りを決して許せない潔癖な性格と、それでも何を想っての行動だったのかを知る聡い理性とで、今も尚葛藤しているに違いない。リムスレーアの中で『彼女』は、憎みきることも受け入れることもできない、中途半端な立場のまま残っているのだ。
「……ほら。リムも挨拶しなきゃ」
「そうじゃな……」
 小さく促すと、リムスレーアが神妙な顔で頷いた。さらりと長い衣服の裾を払い、シェンルフィーダの隣で同じように跪く。祈るように手を組み、双眸を伏せた妹から視線を外し、シェンルフィーダは再び小さな石碑に向き直った。
 彼女がその命を落としてから、まだ一年しか経っていない。けれどその間に、いろいろな出来事があった。喜ばしい報せも、少し寂しい話も……語りたいことなら、たくさんある。
 けれど、何よりもまず最初に話したいのは。
(あなたのおかげで、リムはまだ迷っている。ひどいじゃないですか、叔母上)
 それは悪いことをしたねぇ、と応じる声が聞こえたような気がして、シェンルフィーダは小さく苦笑した。
 公式には、サイアリーズは『王子軍と行動を共にしながらギゼルに内通した裏切り者』という事になっている。サイアリーズの真意はどうあれ、表面的には彼女の行動はまさしく『裏切り』に他ならない。そのため、人々の間に広がった噂を追認するような形で公式発表を出さざるを得なかった。その後、ソルファレナ奪還の際死亡したサイアリーズの遺体は、反乱に加担したザハーク達と共に罪人として共同墓地に葬られた、と発表した。
 名が記されていないこの石の下に誰が眠っているのか、知っているのはほんの数人だけだ。
(僕が居ない間、叔母上とリムはどんな風に過ごしていったのですか)
 ソルファレナ解放のさなか息絶えたサイアリーズを密かにここへ移したのは、リムスレーアの独断によるものだ。シェンルフィーダでさえ、それを知ったのは混乱が収まりしばらくしてからで、そのときにはもうここに埋葬された後だった。
 リムスレーアが何を思い、そんな風に行動したのか、シェンルフィーダには分からない。一度だけリムスレーアに理由を尋ねたことがあるのだが、相当長い沈黙の後に「母上にとっては、たった一人の妹だから」という言葉が返ってきただけだった。
 それが本心からなのか、それとも言い訳なのか、見分けがつかなかった。もしかしたら、サイアリーズとリムスレーアの間でそんな話が出たのかもしれないし、あるいは妹なりの叔母に対する感謝の表れなのかもしれない。サイアリーズが太陽宮へ戻ってから、リムスレーアとどんな会話を交わしていたのか……リムスレーアは何も語ろうとしないし、サイアリーズもまた何も教えてくれない。
 だから。
(母上、父上、叔母上……)
 知りえない過去の経緯を気に病むのではなく、未来を。取り戻したものを喪ってしまわぬよう、心のうちで誓う。
(どうか、見守っていてください)
 ふと眼を開け隣を見ると、リムスレーアはまだ俯いたままだった。やがて長い睫が小さく震え、ゆっくりと琥珀の瞳が現れる。
「……すまぬ兄上、待たせてしもうたかのう」
「いいや全然。リムは、父上たちとどんな話をしたの?」
「内緒じゃ。そういう兄上は?」
「僕も、秘密」
 裾についた土を払い落とし、リムスレーアに手を差し伸べると、するりと細い手がおさまった。二人並んで、来た時と同じようにゆっくり歩き出す。
「……そろそろ行こうか。ミアキスがきっと待ちくたびれてるよ」
「そうじゃな」
 この手が二度と離れないよう、祈りをこめて繋いだ手に力を込める。
(リムは、僕が必ず護りきってみせる)
『頼みましたよ、シェン』
 三人それぞれの柔らかい励ましが、シェンルフィーダの耳を掠める。幻かもしれないが、誓いを聞き届けてくれたのだと……その答えなのだと、そう思いたかった。

[小話]聖誕祭の夜

2007/12/25 火曜日

 そういえば、と思い出したのは、もう寝る直前だった。寝る準備を今頃している自分とは違い、ヒューゴはもう準備万端整えて、ベッドの上で最近はやりだとかいう恋愛小説を寝転んだまま読んでいる。寝転んで本を読む姿勢は苦しくないのか、と見るたびに思うのだが、ヒューゴにとってはまったく苦ではないようで、クリスが寝る前の時間をいつもそんな風に過ごしていた。

「どうしたの?」
「ああ、いや……」

 朝起きたときに髪の毛が大変なことにならないよう、緩く編みながら曖昧に答える。どうやら先ほどの『思い出し』は無意識のうちに声に出してしまっていたらしい。独り言にしかすぎない言葉でもきちんと捉え、会話のきっかけにしてしまうヒューゴの律儀さに、相変わらずだな、と少しだけおかしくなる。
 紐できちんと結んでから、ヒューゴの隣にもぐりこむと、ぱたりと本を閉じてヒューゴがまっすぐにクリスの方に向き直る。至近距離で見る緑柱石の双眸がいつもよりなぜかやさしく見えて、妙に気恥ずかしい。
 それは、ふと脳裏をよぎった懐かしい想い出のせいだろうか。

「そういえば、久々だな、と思って。それだけなんだが」
「何が?」
「聖誕祭の夜を、誰かと一緒に過ごすのが」

 いつもより少しだけ豪華な食卓を囲んで。暖かい暖炉の前で、いろんな話をして。
 両親が揃っていたときはずっとそんな風にこの夜を過ごしてきていた。今日ばかりは特別といろんな話をしてくれる父に甘えて、「今日はもう寝なさい」なんて母に苦笑されて。
 それはもう遠い遠い想い出で、ひどく朧になってしまっているけれども。

「……すごく楽しかった、ありがとう」

 父と母が相次いで亡くなってから、この家に居ること自体がひどく減った。ただ独り残された屋敷はひどく寂しく、すぐに騎士団付属の学校へ入ることを決めたからだ。寮に入ってからは帰省自体が稀で、ずっと独りで過ごしていた。
 騎士団に入ってからも、戦場が選択肢に加わっただけで何も変わらなかった。それどころか、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていた。

「……クリスさんて可愛いよねほんと」
「何がだ」

 率直な感謝にそんな茶化すような答えを返されて、クリスは僅かに唇を尖らせた。暖かいベッドのお陰か、それともちょっと普段より多めに飲んだ葡萄酒のせいか、どちらが理由かは分からないが、横になったとたんひどく眠くなっているような気がする。いつになく素直な反応も、そのせいかもしれない。

「なんでもないよ。ただ……クリスさんに楽しんでもらえて、俺も嬉しかった。それだけだよ」
「そうか」

 少しだけ意味深なヒューゴの笑みが気になるものの、ゆっくりと押し寄せる睡魔が勝った。間近に感じるヒューゴの温もりに頬を預けて、そっと瞼を閉ざす。

「今度は、ヒューゴの番だな。新年はカラヤ流でお祝いしよう」
「それはやめたほうがいいよ。多分」
「何故だ?」
「だって、三日三晩飲み明かすんだよ。クリスさんの仕事に差し支えちゃうよ」
「……それは困るな」
「でしょ?」

 くすくすと漣のように降ってくる笑い声が、なんとなくくすぐったい。

 ああ、なんて幸せな。

「おやすみ、クリスさん」
「おやすみ、ヒューゴ」

 

 

 
 枕元に置かれたプレゼントに気付くまで、あと数時間。

[小話]メサイア

2007/12/17 月曜日

 ひどく疲れていたのだろう、クリスは軽く食事を取っただけで、すぐに深い眠りについてしまったようだった。ソファに深く座ったまま、ゆっくりした呼吸に合わせて肩から滑り落ちる銀髪がさらさらと揺れる。
 起こさないように気をつけながら、ヒューゴはその隣に座った。慎重な手つきでクリスの体を傾けさせ、自分のひざの上にクリスの頭がくるように調整する。
「うぅん……」
 呟きともうめきともつかない声が、クリスの唇からこぼれる。起こしてしまったか、と顔を覗き込んだが、眉間に深いしわを刻んだままクリスは眠っているようだった。どうやら先ほどのは寝言ということなのだろう。ほっとすると同時に、どんな夢を見ているんだか、と呆れもする。夢の中でぐらい、もう少しこう……安らかになってもいいはずなのに。
 口には出さず、小さくため息だけをついて、ヒューゴは寝室から持ってきた毛布を、クリスの上にゆっくりと広げた。毛布からはみ出したクリスの両肩は、そこに課せられる重責とは正反対に、ひどく細く頼りなくさえ見える。

(可哀想に、ね)

 半ば以上< 英雄>としての責務を放棄している自分とは違い、クリスは現在進行形だ。決して逃げようとしない潔い精神は、多くの人が好意を持つだろうが、時と場合によってはクリス自身への害となる。誰にも肩代わりを許さず、独り抱え込むその姿は、あとわずかという時間制限が無ければ決して容認し得ないものだ。
 全てを救おうと足掻く彼女の中で、彼女自身も「救うべき人間」に入っていればいい、と心の底から願わずにはいられない。身を削るのを当然と考えている彼女は、他人に優しく……限度を超えて自分に厳しい。

(クリスさんは、優しすぎるから)

 人を救うのは、人ではない。本当の意味では、自分自身以外誰も救えない。早くそれに気付いてくれればとも思うが、騎士として「市民の剣となり楯となる」のが呼吸するように当たり前のクリスに、それも酷な話なのだろう。ゼクセンを離れ旅をするようになれば、また少しは変わるのかもしれないけれど。

(……さて、どうしたものか)

 クリスの朝は早い。そもそも激務の連続なのだから、きちんとベッドで寝て疲れを取ったほうがいい。けれども、今ここで起こすのもなんだかなぁ、とも思う。最初からベッドへ連れて行けばよかったという反省がちらりと脳裏をよぎるが、今更それはしょうがない。とりあえず自分も風邪をひかないよう、少し毛布を引っ張って、ヒューゴも眼を閉じることにした。

(……おやすみなさい、クリスさん)

[小話]昔話は変遷する

2007/11/2 金曜日

 ある程度、予想はしていたのだ。
 記憶というものは、どうしたって風化する。人々の口から口へと伝えられるたびに、ある部分は抜け落ち、あるいは付け足され、いつの間にか事実は「綺麗で完全な『物語』」へと変化していく。人に伝わらない、個人の中の記憶でさえも、想い出は時間と共に色褪せ、美しく朧げなものへとぼやけていく。
 記録だとて、風化からは逃れられない。いや、公正であり事実であると信じられやすい分、文字による記憶のほうが性質は悪いかもしれない。何時・誰が・どの立場から書いたものか、それによってただ1つの事実が様々な思惑で解釈され、千変万化の色合いを見せてしまう。
 ヒューゴ自身、記憶も記録も当てにならないことを知っている。当時どれほど広く知られていた事柄も、時間と共に忘れられてしまうし、伝えられなくなってしまう。ヒューゴがまだ何も知らない「子供」だったころ、< 炎の英雄>がかつて何を想い、行動したのか、まったく知らなかったように。生身の人間の苦悩も葛藤も置き去りにされ、ただの「御伽噺」が出来上がった過去を、知っている。
 とはいえ。
「……」
 目の前に展示されている現実は、ヒューゴの生半可な予測や覚悟を軽々と打ち砕いて余りある破壊力を有していた。
 呆然と見上げるヒューゴの隣で、クリスは顔を背け肩を震わせている。笑い転げたいのを懸命に押さえ込んでいるのだろう。薄情だと怒ればいいのか、一緒になって笑い飛ばすのがいいのか、対処に困ったヒューゴは途方にくれて、とりあえず視線を下に落とす。先ほど見たものを、脳と心と両方とが認識したがらないようで、うまく考えが回らない。
「あの、どうか……?」
 片や絶句、片や笑いをこらえる、といった常に無いであろう反応に、案内人の若者がおずおずと尋ねた。三人の前にかけられた巨大な絵は百年ほど前の戦を描いたもので、この城を訪れる観光客の間でも特に人気が高いものだ。今まで感動されることはあっても、笑われる事など若者にとっては初めてなのだろう。
 さもありなん、とヒューゴはぼんやり思う。
 芸術に対する素養はあまり無いヒューゴでさえも、この絵は素晴らしいように見えた。大胆な構図に独特の色使いが美しいが、なんといっても人々の表情が特に見事だといえた。戦の一場面だというのに凄惨さは感じさせず、外敵を討ち払うべく立ち上がった人々が、活き活きと描かれている。中でも、中央に立つ人物は特に思い入れをもって描かれたらしく、たかが絵画とは思えない強烈なカリスマと、今にも動き出しそうな躍動感とが、画布を通じて伝わってくるようだった。モチーフがモチーフでさえなければ、ヒューゴもクリスも手放しで絶賛したに違いない。
 はぁ、とため息をついたクリスが、ヒューゴのほうへと視線を向けた。ようやく笑いが収まったらしいが、よくよく見ると目元にも口元にも、もうひとつ声色にも笑みが滲んでいる。
「……ヒューゴ、感想は?」
「おや、こちらの方もヒューゴ様とおっしゃるので?」
 クリスの言葉に、ヒューゴよりも先にクリスが先に反応した。良く言えば素直、悪く言えば空気が読めない性格なのだろう、純朴そうな笑みを浮かべて朗らかに言葉をつなぐ。
「では、< 炎の英雄>様にあやかって名づけられたのかもしれませんね。あまり一般には知られていませんが、歴史書によりますと、< 炎の英雄>様も『ヒューゴ』というお名前だったそうですよ」
「……ッ!」
 若者の言葉に、せっかく収まっていた笑いの発作が再び引き起こされたらしく、慌ててクリスが顔を背けた。何か機嫌を損ねたかと若者がおろおろするが、ヒューゴにはそんな状況をフォローするほどの心理的余裕は無い。心の底から憂鬱なため息をついて、もう一度絵画を見上げる。
 仕方の無いことだ、とは思うのだ。当時から< 炎の英雄>の二つ名はヒューゴの手を離れ、一人歩きをしていたものだし、実像とはかけ離れた期待は常にヒューゴの重圧としてあった。それが百年も経てばどうなるかなんて……分かりきっている。
 そうはいっても、想像は予想といったものには、他と同じく限度というものがあるわけで。
「……これはないよなぁ……」
 美々しくりりしく綺羅綺羅しく、誰もが憧れる英雄として爽やかな笑みを振りまき人々導く、理想化された自分(もちろん身長は平均以上ある美青年として描かれている)の下で、現実のヒューゴはがっくりと肩を落としたのだった。

[小話]道標を胸に。

2007/10/17 水曜日

 窓の外でいまだ続いている喧騒に、ティエンは唇を固く噛み締めた。何も知ろうとせず、ただ無邪気にはしゃぐ群集が、今はひどく疎ましい。
 差し向けられた軍を少数の兵で破り、レインウォールの防衛に成功したのだ。ゴドウィン家に対する敵愾心と領主バロウズ卿への信頼、今後の相場への動きに対する期待とで、いまやレインウォールの街中が浮かれているといっていい有様だった。帰って来た王子を歓呼の声で迎え入れ、夜も更けた今なお、お祭りじみた騒ぎが続いている。そうした雰囲気をいち早く察知したのか、それとも彼こそがそうした街の雰囲気を演出したのか……サラム・バロウズは祝勝と言うには華々しすぎる宴でティエンたちを労ってくれた。とはいえ、今はもうその宴も終わり、他の仲間たちはそれぞれ与えられた部屋で、疲れた身体を休めているはずだ。
「……ぐぅッ……は、ぁ……ッ」
 こみ上げる吐き気に逆らわず、洗面台の端に手をついて、ティエンは嘔吐する。何度も何度も……胃の中にはもう何も入っておらず、胃液しか出てこないが、それでも吐き続ける。

(……たすけて……)

 覚悟は、していた。そのはずだった。奪われたものを取り戻す、そのために軍主として祭り上げられることも、一時的とはいえリムスレーアと対立する立場になることも、承知の上で選んだはずだった。
 けれど、それは現実を知らない愚か者の、薄っぺらい覚悟に過ぎなくて。
「……はぁッ、……はッ……」
 『取り戻す』――そのために奪ったもの。ティエンに率いられ、レインウォールを出て帰ってこれなかった兵士と……自分達の刃に倒れたゴドウィン側の兵士達の、命。
 敵、と断じるのはたやすい。けれど、彼らも同じファレナに住む、ティエンが女王家に連なるものとして守らなければならなかった、民だ。そして何よりも彼らにも帰りを待つ親や子や兄弟、恋人が居て、誰かにとって『かけがえのない誰か』だったはずだ。

(たすけて、リム……!)

 それが大切な恋人を守ることにも繋がる、そう信じて志願した者もいるかもしれない。故郷の家族を養うために兵となり、生活を切り詰め給金のほとんどを仕送りにあてていたものも、いるかもしれない。立身出世のために兵となったものも、集落の総意として人柱同然で連れてこられたものも、いたのかもしれない。
 ティエンには確かめるすべはないけれど、それぞれの人生にそれぞれの大事な人が居て……そして、ティエンはそれを踏みにじり、屍の山へと変えた。リムをとりもどす、そのために。
「……ふ、……」
 一時的かもしれないがようやく吐き気がおさまり、口の中を漱ぐ。目の前の鏡に視線を向けると、薄い明かりにぼうっと照らされて、青ざめた顔に冷たい汗をびっしり浮かべている自分の姿がぼんやり映った。幽鬼のように荒んだ空気を纏う自分の影の向こうに、陽光を一身に浴びて朗らかに笑うリムスレーアの幻が見えて、ぎゅっと固く眉根を寄せる。
『兄上!』
 弾むような声音が、脳裏にこだまする。小さな体で精一杯胸を張り、自明の理のように彼女は全面的な信頼を口にするのだ。
『兄上なら大丈夫、間違うはずが無い。兄上が選んだことなら、きっとそれは正しいことなのじゃろう。わらわが保証しても良いぞ!』
「……ありがとう、リム……」
 唇の端にかろうじて笑みらしきものを浮かべ、ティエンはそっと鏡に呟いた。
 都合のいい、記憶の再生だと自分でも分かっている。確かにリムスレーアはかつてそういったことがあるが、それは今のティエンに向けてではない。守るべき民を自ら殺めたティエンに、今でもリムスレーアが同じことを言ってくれるとは限らない。
 それでも、思い出の中の笑顔ひとつ……それだけで、自分を見失わずに住む。血の匂いに惑わされず、もう一度歩き出すことができる。きっと、これからも何度も迷うだろうけれど、道標は胸のうちに残されているから。
「……ごめんねリム。もう少しだけ、待ってて」
 揺れることはあっても、立ち止まることはない。いかなる犠牲を払ってでも、手の中に取り戻したいものがある。迷うたびに、何度でも誓い続ける。

(必ず、そこへ帰ってみせる)

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